ツァールスコエ・セローはサンクトペテルブルグの南にある「皇族の村」で、ピョートル大帝が妃エカテリーナ1世のために建てた豪華な宮殿と美しい庭園で知られている。
第2次世界大戦でサンクトペテルブルグ(当時のレニングラード)を包囲したドイツ軍はこの宮殿に陣を構え、冬を迎えた。時に零下20度を下回る極寒に、ドイツ兵たちは庭園の樹々をすべて切り倒して薪にし、それがなくなると宮殿内の調度品をつぎつぎと火にくべた。貴金属や美術品は収奪され、戦争が終わる頃には絢爛たる宮殿はただの廃屋と化していた。
宮殿の復旧はソ連時代から進められていたが、サンクトペテルブルグ出身のプーチンが権力を握ると国家の威信をかけた一大事業となり、2003年、サンクトペテルブルグ建都300周年にその全貌が一般公開された。
宮殿には壁一面が琥珀細工で覆われた「琥珀の間」があり、その美しさは世界的にも知られていた。ドイツ軍は撤退の際に、ヒトラーへの献上品としてこの豪華な装飾を壁ごと切り出して持ち去ってしまった(その後の行方は謎のままで、輸送船ごとバルト海に沈んだともいわれる)。プーチンは、ロシア全土から琥珀を集め、カネに糸目をつけず、この幻の部屋を現代に甦らせた。
サンクトペテルブルグで日曜日が1日空いたので、この有名な宮殿を見学しようとホテルのフロントの女性に行き方を聞いた。すると彼女は、「エカテリーナ宮殿はサンクトペテルブルグでもっとも人気のある観光地で、週末はきわめて混雑し、個人で行っても入場を断わられる」という。ほんとうかどうかわからないが(あとで確認すると、ガイドブックにもたしかにそう書いてあった)、片道1時間かけて追い返されるのではかなわないから、彼女の勧めにしたがってツアーガイドを頼むことにした。
こうして、イゴールがやってきた。53歳で、自分で小さなツアー会社を経営しているという。身長はそれほど高くないが、がっしりとした体型で、スーツにネクタイを締めている。
サンクトペテルブルグの歴史についてさんざん聞かされたあと、宮殿を見学した。個人ガイドはどこでもフリーパスで、団体客の列に並ぶ必要もないから、たしかにものすごく効率がいい。
琥珀の間を含むさまざまな見所を案内された後、庭園に出た。終戦直後はわずか1本の木しか残っていない荒地だったが、往時の記録をもとに東屋まですべて再現したのだという。そんな話をひととおりしたあとで、「なにか質問はないか」という。
歴史の話は聞き飽きたので、ソ連時代はなにをしていたのか、訊いてみた。イゴールは、ちょっと驚いた顔をした。そんなことに興味を持つ観光客は、あまりいないのだろう。
イゴールは私を、池の畔のベンチに座らせた。それから私の前で仁王立ちになると、えんえん1時間にわたって自分の半生を語りはじめた。
以下は、社会主義から資本主義へという価値観の大転換を経験した一人のロシア人の物語だ。
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イゴールはサンクトペテルブルグで、エンジニアの父親と教師の母親の家庭に生まれ、なんの疑問も持たずにピオネール(少年団)からコムソモール(共産党青年団)に入団し、理工系の大学を卒業すると、北極海に面したムンマルクスで国内商船の機関士の職についた。結婚をし、子どもが生まれ、人生は貧しくとも大過なく過ぎていくものだと思っていたが、やがてゴルバチョフによるペレストロイカ(政治改革運動)が始まり、ベルリンの壁が崩れ、91年にはソ連邦が解体した。
エリツィン政権の急速な経済自由化政策の失敗でロシアをハイパーインフレが襲ったのは、1992年、イゴール34歳のときだった。物価は1年で20倍以上に高騰し、通貨ルーブルは暴落し、イゴールの勤めていた海運会社も倒産してしまう。、
職を失ったイゴールは、故郷のサンクトペテルブルグに戻って警備員の職に就いた。彼にとって幸運だったのは、経済の自由化と通貨の下落によって古都サンプトペテルブルグに欧米から観光客が押し寄せるようになったことだ。ルーブルよりもアメリカの煙草マルボロの方が信用力が高く、数カートンあればイコン(宗教画)から売春婦までなんでも買えるといわれた頃だ。
イゴールの仕事は、海外からの団体客の警護だった。このときはじめて、欧米の自由主義諸国の圧倒的なゆたかさと、ロシアの貧しさを思い知った。映画俳優リチャード・ギアがサンクトペテルブルグの名門ホテル・ヨーロッパで開いたパーティの警護も担当した。湯水のごとくシャンパンが開けられ、テーブルには山盛りのキャビアが並ぶのを目の当たりにして、とても現実のこととは思えなかった。
「考えてみてくれよ」エカテリーナ宮殿を背に、イゴールは両手を振り回した。「それまではアパートもタダ、医療費もタダ、教育費もぜんぶタダだったんだ。仕事は国から与えられるもので、お金のことを考える奴なんて誰ひとりいなかった。それがある日突然、もう面倒はみられないから、自分で稼いで生きていけといわれたんだ。そんなことできると思うかい?」
90年代初頭のハイパーインフレでほとんどのロシア人は乏しい蓄えのすべてを失ってしまい、年金だけを頼りに生きていくほかはなくなった。
「みんな、月300ドルから400ドルの年金でなんとか暮らしているんだ」イゴールはいう。「そこからアパートの家賃と水道光熱費を払えばほとんどなにも残らない。だから、黒パンと牛乳だけで食いつないでるんだよ」
それでも暮らせなくなったら、ホームレスになるほかない。冬は凍死してしまうから、ビルの地下や廃屋に入り込む。暖をとるために建物のなかで火をたくので、冬のサンクトペテルブルグは火事が多いのだという。
冬になれば、午後3時を過ぎると太陽は沈んでしまう。なにもすることがないので、男たちはひたすらウオッカを飲む。ロシア人の男性の平均寿命は、90年代にはずっと60歳を下回っていた(2008年にようやく61.8歳になった)。10万人当たりの自殺率も30.1と、ベラルーシやリトアニア、カザフスタンなど旧ソ連邦の国々とともに世界でもっとも高い(日本の自殺率は24.0)。酔いつぶれたあげく、生きることに希望を失ってさっさと首をくくってしまうのだ。
イゴールは警備員の仕事をしながら、このままでは自分の人生もあいつらと同じだと思った。そのとき政府が、高等教育を無料で受けなおすことができる救済プログラムを始めた。イゴールはそれに応募し、46歳で大学に再入学して、働きながら英語を学んだ。
「みんな俺のことを笑ったさ。そんな年で、若いやつらといっしょに大学に行って、いったいなんの役に立つのかって」
大学を卒業すると、イゴールはツアーガイドの登録をして自分の会社を立ち上げた。ビジネスは順調で、やがて人を雇うようになった。アパートも買い増して、妻と2人で不自由のない暮らしができている。
息子は数学の教師をしていたが、やはり大学に再入学し、コンピュータの学位を取って、いまではドイツ系企業の子会社に勤めている。結婚したのを期に家を買おうと考えているが、不動産価格は急騰し、金利も高いので悩んでいるのだという。
「けっきょく、ほとんどの人間は生き残れなかったんだよ」そういってイゴールは、長い話を終えた。「なにもかも、あまりにも変わってしまったからね」
そのあとにつづく言葉を彼は口にしなかったけれど、もちろん私にはわかった。
「でも俺は、見事にやりとげたのさ」
日本からの物好きな観光客に、彼はそう伝えたかったのだ。