その年は神戸で大きな地震があって、その2ヶ月後に地下鉄で毒ガスが撒かれた。テレビや新聞は宗教団体が毒ガス製造にかかわっているとして、連日洪水のような報道をつづけていた。カルト教団の信者たちは洗脳されていて、教祖の命令に従ってロボットのようにひとを殺すのだと信じられていた。
その頃ぼくは雑誌の仕事をしていて、とても単純な疑問をもった。事件についての膨大な情報にもかかわらず、当の信者がどのようなひとたちなのか誰も知らないのだ――テレビに頻繁に登場していた1人を除いては。
当時教団は、富士山の麓にサティアンと呼ばれる巨大な宗教施設を保有していた。そこでぼくは、教団の広報を通じてその施設を見学させてもらうことにした。警視庁による大規模な強制捜査が行なわれるすこし前のことだ。
教団の広報担当者のYさんと、ライター、編集担当者、ぼくの4人で、東京から車で河口湖畔に向かった。
Yさんはジーンズにジャンパーというラフな格好で、銀縁の眼鏡をかけ痩せて神経質な感じはするが、真面目なごくふつうの若者に見えた。カーラジオからはずっと事件関係のニュースが流れていたけれど、Yさんはほとんど関心がないようで、ぼくたちの質問にこたえて、教団の機構や修業の内容をこと細かに教えてくれた。彼は関西の大学を卒業して大手企業に就職したが、超越的なものへの憧れを断ち切ることができず、すべてを捨てて出家の道を選んだのだといった。
中央道を富士吉田インターで降り、一時間ほどのところに案内された教団施設はあった。
そこは道場として使われていて、広い畳敷きの大広間は体液と排泄物が染みついたような、鼻をつく独特の臭いがした。信者たちは白の作務衣を着て、思い思いの場所で座禅を組み、頭にヘッドギアと呼ばれるヘルメットのようなものをかぶって一心にマントラを唱えていた。
台所にはゴキブリが這いまわり、ネズミのかじった跡があちこちにあった。不殺生の戒律を守るために、生き物は殺せないのだと説明された。プラスチックの小さな皿に、イースト菌を使わずにつくったパンと、根菜類の煮物が載っていた。信者はその皿を受け取ると、手づかみでたいらげ、修業へと戻っていった。
入口に下駄箱があり、そこに子どもの靴が乱雑に積み上げられていた。この施設で子どもたちも暮らしているが、安全のため、外部とは隔離しているのだという。信者はみな白のズックかサンダルだったが、子ども用はミッキーや白雪姫のイラストが入ったかわいらしい靴が目についた。
3ヶ所ほどサティアンを見学して、どこでもユダヤの陰謀について長い話を聞かされた。そんなときもYさんは会話に加わらず、黙ってやりとりを見ていた。
東京に戻る途中のサービスエリアで夕食にした。Yさんは慎重に具材を吟味すると、刻みねぎが載った素うどんを注文した。食堂のテレビが、新たな教団関係者の逮捕を報じていた。それを見てYさんは、「またですか」と呆れたような声をあげた。
青山にあった教団の東京本部にYさんを送り届けたときは、すっかり夜になっていた。教団幹部が刺殺された直後で、本部は警官隊によって厳重に取り囲まれていた。地下の教団事務所の奥に紫色のソファが置かれた部屋があり、そこに教団幹部が集まっていた。Yさんは階級が低いらしく、その部屋に入ることは許されていないようだった。
Yさんと別れると、ぼくたちは六本木交差点のアマンドでコーヒーを飲んだ。深夜0時を過ぎて、開いている喫茶店がほかに思いつかなかったからだ。
奇妙な一日が終わって、みんな神経が高ぶっていた。新宿駅で新たなテロが計画されている、という噂が流れていた(後に、地下トイレに青酸ガスの発生装置が取り付けられていたことが発覚した)。
教祖は、世紀末のハルマゲドンを予言していた。不気味な出来事がつづいて、明日なにが起こるのか誰にもわからなかった。
ぼくたちのテーブルの隣に、ブランドもので身を固めたモデル風の若い女の子がいた。店内に客はまばらで、彼女たちの会話は否応なく聞こえてきた。二人は先ほどからずっと、真剣そのものの表情で、観月ありさが整形しているかどうかについてしゃべりつづけていた。
ぼくはそのときなぜか、高速道路のサービスエリアで、テレビを見ながら声をあげたYさんのことを思った。彼の属する教団は、世界を霊的に救済し、ひとびとをより高いステージに導くことを目指していた。
それから2週間ほどして、Yさんは教団から姿を消した。
* * * * * * * *
これは90年代の出来事で、番外編です。「若いときの思い出から人生設計を語る」という企画は、ここまで書いて行き詰まり、投げ出してしまいました(だからこれが、とりあえずの最終回です)。
こんな個人的な話に興味を持つひとがいるのだろうかと疑問でしたが、思いがけずたくさんの方に読んでいただけたので、機会があればつづきを書いてみたいと思います。