第1回 侮れぬ居酒屋クーポン(橘玲の世界は損得勘定)

日経ヴェリタスで、「橘玲の世界は損得勘定」という新連載を始めることになりました。以前の「『不思議の国』探検」は日本の金融業界の“不思議”がテーマでしたが、ネタが尽きて連載20回で行き詰まったので、今回はお金に関する身近な話題を思いつくままに書いていこうと思います。

第1回は、当初は3月20日スタートの予定で原稿もずっと前に渡していたのですが、東日本大震災を受けて掲載が延期されていたものです。

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ずいぶん昔の出来事のように思えるが、大震災のすこし前に近所の居酒屋を訪れた。鶏料理と鍋の店で、まだ早い時間だというのに、店内はほぼ満席だった。なんでも、人気マンガ家とアル中の夫を描いた映画の撮影地になったのだという。

私たちの席の隣は若いカップルで、カクテルを飲みながら串焼きやおでんなど何品か食べ終わると、そそくさと席を立った。

次にやってきたカップルは鶏の唐揚げ、鶏のバター焼き、鶏ラーメンなどを次々と注文し、やはりさっさと帰っていった。

私たちはとりたてて長い時間その店にいたわけではないのだが、勘定をするときは3組めのカップルと一緒だった。これはそのテーブルだけが特別というわけではなく、その店では長居をする客はほとんどいないようだった。

あまり居酒屋に行く機会がないので、最近の若者はずいぶんあっさりしているんだな、と思った。私の若い頃は、いちど飲み屋に入れば、閉店までくだらない話をして過ごすのが当たり前だった。

会計の後で、クーポン券をもらった。そのときはたいして気にとめなかったのだが、翌日、財布の中に突っ込んであったそのクーポン券をしげしげと眺めて、ようやく謎が解けた。

その店ではすべての客に、3000円以上の利用で1人につき1000円を割り引くというクーポン券を配っていた。それがあれば3000円の料理が2000円になるのだから、率すれば3割引の大盤振る舞いだ。でもこの割引は金額ベースなので、1万円飲食しても1000円しか引いてくれない。

この条件からただちに分かるように、その店でデートをするのなら、2人でぴったり6000円の注文をして2000円割り引いてもらうのがもっとも得だ。店のメニューはネットに掲載されていて、事前に調べておけば迷うこともない。だからみんな追加注文することなく、食べ終わるとさっさと帰っていったのだ。

ところでこんなことをしていて、店はやっていけるのだろうか。でもよく考えると、これはなかなか巧妙なアイデアだ。クーポンの有効期限は翌月末になっていて、使わないと損をした気になる客に来店を促す。彼らは1人2000円しか払わないかもしれないが、短時間で帰っていくのだから、回転率が高ければ店の売上は大きくなる。なかには高額の飲食をする客も一定数いるだろう。

客がこのクーポンを使うのは、たんに割引率が高いからではなく、ゲーム性があって面白いからだ。いろんな組み合わせで“最適”な注文を試行錯誤できるし、努力(?)次第でCP(コストパフォーマンス)はどんどん高くなる。

もちろんいちばん損するのは、私たちのような無知な客なのだけど、ここにも仕掛けがあった。いったんこのシステムに気がつくと、次はクーポンを使って挽回しようと考える……。

うーむ、居酒屋恐るべし。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.1:『日経ヴェリタス』2011年4月17日号掲載
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