民主党政権がますます迷走している。個々の政治家の資質にはいろいろ言いたいことがあるだろうし、実際にいろいろ言われているので、ここではもうすこし構造的な問題を考えてみたい。
日本の政治でみっともないことがつづいているのは、そのいちばんの理由として、景気がさっぱりよくならないからだろう。これは、業績が低迷する会社(や部署)で、責任の押しつけ合いや足の引っ張り合いが起こるのと同じで、身につまされるひとも多いんじゃないだろうか。
そもそも「王」というのは、共同体を支配すると同時に、生贄として神に捧げられる存在でもある。ひとは因果律に基づいてものごとを判断するから、あらゆる災厄には原因があり、その原因を取り除けば不幸は去るはずだと考える。古代の農耕社会では、凶作がつづくと王は民衆によって殺されてしまった。文字どおり首をすげかえて、神に許しを請うたのだ。
日本社会では、不景気や円高、デフレ、格差社会、毎年3万人の自殺者など、ずっと災厄がつづいている。首相の首がどんどんすげかえられるのは、日本がいまだブードゥー社会だと考えれば当然のことだ。景気が回復するまで、私たちはこれから何十人もの首相の顔を見ることになるかもしれない。
もうひとつ見逃せないのは、小選挙区制の導入と時代の変化によって、派閥がなくなったことだろう。
「市場の倫理と統治の倫理」で書いたけれど、私たちの社会にはふたつの異なる倫理(行動規範)がある。このうちより根源的なのは統治の倫理で、ようするに戦国時代や三国志の世界なのだけれど、人間集団(くに)を階層化し、そのトップに「王」が座り、集団同士が覇権(なわばり)をめぐってあい争う。この構図は人類社会に普遍的なだけでなく、チンパンジーやニホンザルでも同様に観察できるし、イヌやオオカミなど集団で狩りをする動物も同じ行動原理に従っている。
「政治」というのは統治の倫理が支配する場だから、そこではボスを頂く集団同士が権力の座を奪いあうのが基本形だ。自民党と社会党が補完しあった55年体制では、どちらも党内に複数の派閥があり、合従連衡しながら骨肉の争いを繰り広げてきた。その様子は伊藤昌哉の『自民党戦国史』に活写されているけれど、つい30年前までは、日本の政界は戦国時代とまったく同じことをやっていたのだ。
中選挙区制では複数の派閥が候補者を擁立することができるから、候補者は党(幕府)よりも派閥(藩)に忠誠を誓う。この幕藩体制を小選挙区制の導入によって“近代化”しようとしたのが小沢一郎で、派閥を解体して党への中央集権化をはかる一方で、アメリカにおける共和党と民主党のように、党と党が異なる理念を掲げて対決する政治を目指した。私には小選挙区制が最良の選挙制度なのかどうか判断がつかないが、“派閥政治”の耐用年数がとっくに切れていたのは事実だろう。
ところがいざ派閥が機能を失うと、日本社会にはそれに代わる行動規範がないから、政治は大混乱に陥った。その間隙を突いて、天性のマキャベリストたる小泉純一郎が世論の支持を背景に「大統領型首相」という新しい統治のかたちを示したが、民主党はそれを全否定することで政権を奪取したため、従来の派閥政治に戻ることもできず、かといって小泉型のリアリズムを踏襲することもなく、「友愛」という無意味な標語(みんな友だちなんだから、話せばわかるよ)で政治を運営することになった。こうして予定調和的に、統治なき政権は崩壊していくことになる。
本来の二大政党制であれば、アメリカやイギリスのように政党は理念によって差別化されなくてはならないが、日本では政治家は理念よりも利害によって所属政党を選んでいるので、民主党も自民党も、構造改革派、伝統保守派、平等主義派など、本来であれば相容れるはずのないひとたちの寄り合い所帯になっている。そのため政権党内部で意見がまとまらず、その敵失を野党が利用しようとするから、すべてが底なしの混沌に落ち込んでいく。この構図は自民党が政権をとっても同じだから、なんど選挙をやってもむなしい茶番劇が繰り返されるだけだろう。
日本の政治が痛々しいのは、ゲームのルールが変わってしまったにもかかわらず、政治家たちが戦国時代のままの(あるいはチンパンジーと同じ)権力ゲームに必死にしがみついているからだ。彼らがそうするほかはないのは、そもそも日本社会が「理念によって覇を争う」などということをやったことがないからで、どうすればいいのかもわからないし、変わるのが怖いからでもある。
そしてさらに痛々しいのは、政治家たちの無様な姿が、日本人の行動原理そのものだ、ということだ。私たちが政治の現状にいいようのない怒りを感じるとしたら、それは鏡に映った自分自身の姿を見せられているからなのだろう。