相続税は道徳的に正当化できるか?

武富士元会長の長男に対する巨額追徴訴訟は、2月18日の最高裁判決で、1330億円の追徴処分を適法とした2審判決が破棄され、長男側の逆転勝訴が確定した(裁判の経緯はこちら)。私はまだ判決を読んでいないが、納税者の権利を重視する近年の判断を踏襲し、税務当局の裁量(実質主義)を認めず、厳格な法解釈から納税義務の有無を判断する租税法律主義が採用されたということだろう。

この件は、長男側に租税回避の意図があったことは否定できず、還付加算金約400億円を加えた2000億円もの巨費を返還することは、裁判所にも躊躇いがあったようだ。

須藤裁判長は補足意見で「海外経由で両親が子に財産を無税で移転したもので、著しい不公平感を免れない。国内にも住居があったとも見え、一般の法感情からは違和感もある」と、俊樹氏側の行為が税回避目的だったと判断しながらも「厳格な法解釈が求められる以上、課税取り消しはやむを得ない」と述べた(日経新聞2月18日)。

この判決が徴税現場に与える衝撃は計りしれない。今後は曖昧な実態基準による課税は認められず、明らかに租税回避を目的とするものであっても、法律上、外見が整えられていれば手出しできなくなるからだ。これではグレーゾーンの節税を阻止することはできず、今後は、「抜け穴」を封じるための法改定が喫緊の課題となるだろう。

日本の税法は海外旅行が許可制だった頃につくられたもので、納税義務のない「非居住者」とは、生活のために海を渡る移民や、外国人と結婚した女性、大企業の(数少ない)海外駐在員などが想定されていた。若者がバックパックひとつで海外を放浪し、リタイアした夫婦が気軽にロングステイする時代に対応できないのは当たり前だ。

しかしここでは、こうした法の技術的な側面から離れ、「そもそも相続税は道徳的に正当化できるのか?」という観点から考えてみたい。

私たちは、日々働いて得た収入のなかから所得税を国家に納めれば、残ったお金(純利益)をなにに使ってもいい(合法であれば)という自由な社会に生きている。相続財産というのは、税を支払った後の純利益が蓄積したものだ。ということは、これにさらに課税するのは明らかな二重課税になる。

この場合、相続税は国家から国民への次のようなメッセージになる。

「働いて得た収入を、遊興三昧で使い果たしてしまえば税は課さない。だがもしお前が子ども愛していて、自分の財産を残そうとするのなら、罰を与えよう。」

これは私の暴論ではなく、実際、アメリカではこうした理由で相続税は道徳的に正当化できないとして、再三にわたって米議会で廃止が議論されている(ブッシュ政権で条件付きながら相続税廃止が決まったが、オバマ政権で復活した)。

もちろんこれに対しては、有力な反論がある。

自由主義のルールは、だれもが同じ条件で競争をしたうえで、勝者と敗者が決まるのを受け入れることだ。だが生まれた時から恵まれた子どもがいるのなら、社会の基盤である機会平等が損なわれてしまう。したがって自由な社会を守るためには、一定額以上の相続財産を国家が没収することは正当化できる……。

こうして、「経済格差」の拡大を理由とする平等主義者だけでなく、一部の自由主義者や共同体主義者も、相続税を支持するだろう。

私は、相続税に対する相反する議論には、それぞれ理があると思う。だがここで問題になるのは、いったいだれがどの立場を支持するのか、ということだ。

相続税を支持するのは、税の分配を受けられる受益者層(相続税を納めるほどの財産を持っていないひとたち)だろう。だが税を支払うことになる資産家層が、この論理に納得する保証はない。

国民が国土にしばりつけられていた時代であれば、納得するしないにかかわらず、だれもが法に則って税を納めるしかなかった。だがいまは、納得できなければ自らの意思で国を出て行くことができる。

もちろん、数百万円(数千万円でも)の税金を節約するために国を捨てるひとはいない。だがそれが、数百億円(あるいは今回のように数千億円)だとしたらどうだろう。

相続税負担を重くすると、必死になって働いて財産をつくり、それを子どもに残そうとする(成功した)中流層に罰則を課し、富裕な資産家に(税を払わずに)国を出て行くよう促すことになる。それがほんとうに正義(と実益)にかなう制度なのか、私たちはいちど真剣に考えたほうがいい。

*スイスやモナコ、香港、シンガポール、カリブの島々といったタックスヘイヴン国だけでなく、オーストラリア、ニュージーランド、イタリア、スウェーデンなども相続税がない国として知られている。アジアではタイ、マレーシアにも相続税がない。