Facebookと〈私〉

映画『ソーシャル・ネットワーク』のヒットもあって、Facebookに注目が集まっている。

すでにさんざんいわれているけれど、Facebookは実名主義で、学歴や職歴、趣味だけでなく、宗教や政治的立場の入力欄があり、多くのひとが顔写真を載せている。それに対して日本は、2chに代表されるように匿名主義が主流で、SNS最大手のmixiは、ユーザーの登録情報を実名にしたところトラブルが続出したため、匿名で登録しニックネームでやり取りするのが一般的になった。

実名主義と匿名主義は、ナッシュ均衡の関係にある。大半のひとが実名でSNSを利用しているのであれば、自分だけ匿名なのは、やましいことがあると告白しているのと同じだ。逆にみんなが匿名で情報交換する場所で、一人だけ顔と名前をさらすのは、トラブルを招き寄せるようなものだろう。

実名主義の社会では、自分がひとよりどれだけ目立つかを競うのがデフォルトのゲームになる。それに対して匿名主義社会は、ひとと同じことをしてできるだけ目立たず、バッシングの標的になるのを避けるのが最適戦略だ(「伽藍の世界」)。Facebookが徹底して実名にこだわるのは、自らをポジティブ・ゲームのインフラと位置づけているからだろう。

ポジティブ・ゲームの典型が、カウチサーフィンだ。これはバックパッカー同士が自宅のカウチ(ソファ)を無料で貸しあうコミュニティで、現在は世界230カ国、170万人以上が参加している。

サイトを見ればわかるように、カウチサーフィンのほとんどの参加者は実名・顔写真入りで詳細な個人情報をアップしている。でもこれは考えてみれば当たり前で、誰だって顔も名前もわからないような人物を自宅に招いたりしたくないだろう(あるいは、そんなひとの家に泊まりたくないだろう)。

カウチの交換が終わると、お互いが評価しあう。そこで高い評価をたくさん持っていれば、安心して泊まりにいくことができる(あるいは、快く泊めてもらえる)。カウチサーフィンでは親切が点数化されていて、高い点数(評判)をもっている参加者が得できる仕組みになっているのだ。

レイチェル・ボッツマンとルー・ロジャースは『シェア』で、カウチサーフィンのような仕組みを「コラボ消費」と呼び、大量生産される商品を大量消費・大量廃棄する時代から、お互いのモノやサービスを共有(シェア)することでより効率的で人間的で環境にやさしいライフスタイルを実現する新時代が到来すると予言した。

彼らの楽観主義が正しいかどうかは別として、ここでいいたのは、Facebookとカウチサーフィンの仕組み(アーキテクチャ)が同じだということだ。シェアのコミュニティは実名主義を原則とするから、それはやがてSNSと一体化し、利用者は相手がどういう人物かをFacebookで確認しようとするにちがいない。そうなると、Facebookに登録していないひとは、シェアのコミュニティから排除されることになる。もしこれがインターネットの未来なら、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、電脳空間に〈私〉を流通させなくてならなくなる。

「ぼくたちが望んだ無縁社会」で、後期近代(再帰的近代)では、私たちは絶えざる「自己点検」「自己評価」によって「自分は何者か」を説明しつづけなければならなくなる、と書いた。文化人類学者の春日直樹はこれを「オーディット文化」と呼んでいる(『「遅れ」の思考―ポスト近代を生きる』)。

資本主義社会では、上場会社は監査(オーディット)によってBSやPLなどの財務諸表を作成し、自らの業績を投資家に説明しなくてはならない。同様に実名主義のソーシャルネットワークでは、誰もが客観的な基準によって〈私〉を開示し、参加者の評価に委ねなくてはならない。このような世界では、よい財務諸表を持つ会社に高い株価がつくように、よい〈私〉はソーシャル市場で多くの評判を獲得することになるだろう。これはまさに、〈私〉時代の完成した姿だ。

ボッツマン/ロジャーズは、『シェア』で「私」世代から「みんな」世代への“進化”を説いた。私はこれにはまだ懐疑的なのだが、もし彼らの予言が実現するとしたら、そのときの「みんな」はいまとはまったくちがう、オーディットされた〈私〉のネットワーク――それがどのようなものか想像もつかないが――になっているにちがいない。