宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』を興味深く読んだので、忘れないうちに感想を書いておきたい。
宇野はこの本で、19世紀フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィル(『アメリカのデモクラシー』)を導き手とし、私たちにはあまり馴染みのない現代ヨーロッパの政治哲学者・社会学者の議論をひもときながら、だれもが「自分らしく」生きることを追及する「〈私〉時代」のデモクラシーの可能性を論じている(以下は私なりの解釈で、宇野の本の正確な要約ではない)。
18世紀の産業革命によって経済(市場)は爆発的に拡大し、ひとびとは身分制(階層社会)の桎梏から解放され、人類史上はじめて「自由」と「平等」を理想として掲げることが可能になった。近代化とは、王制(神権政治)に対する社会改革=革命運動として始まった。
ところが第二次世界大戦後、社会がより豊かになると、ひとびとの関心は〈社会〉から〈私〉へと向かいはじめる。これが「近代の折り返し点」で、1960年代のヒッピームーヴメントやフラワーチルドレンが先駆となり、ニュージャーナリズムの旗手トム・ウルフが「ミーイズム」と名づけた70年代へとつながっていく。
この「折り返し点を過ぎた近代」を、ヨーロッパの社会学者たち(アンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベック)は「後期近代」「再帰的近代」と呼ぶ。前期近代においては「社会を変える」ことが理想として信じられたものの、後期近代になるとそうした“大きな物語(革命)”は消滅し、「〈私〉を変える」という“小さな物語(自己啓発)”がひろまっていく。そこでは〈私〉はかけがえのない唯一絶対の価値(=オンリーワン)となるが、一人ひとりはみな平等で、特別な〈私〉(=ナンバーワン)はどこにもいない。
新大陸アメリカと旧世界ヨーロッパを比較して、「身分制社会には不平等は存在しない」とトクヴィルは論じた。貴族と平民は、“別の”人間だと考えられていたからだ。不平等が問題になるのは、身分のちがいのない平等な社会だけだ。自分と相手が平等な人間であってはじめて、互いの間にある不平等が痛みをともなって意識されるようになる。
「近代」は、隠されていた不平等を顕在化させ、それへの絶えざる異議申し立てによって既存の権威を解体していく運動のことだ。ポーランド出身の社会学者ジグムント・バウマンは、かけがえのない〈私〉を唯一絶対の価値とする後期近代では、この運動は聖なるもの(信仰)に次いで階級や中間共同体(会社)を抜け殻にし、社会を「液状化」すると論じた(『リキッド・モダニティ―液状化する社会』)。
アメリカ、ヨーロッパ、日本などの「液状化した社会」では、地域や文化のちがいに関係なく、以下のような現象がひろく観察される。
- 「トラウマ」「アダルト・チルドレン」「多重人格」といった俗流心理学が流行し、社会的な問題を個人的な環境や異常心理に還元して解釈するようになる(『心的外傷と回復』)。
- 前期近代では、失業は社会階層(階級)の問題とされ、プロレタリアートによる階級闘争に結実したが、社会問題が個人化する後期近代では、家庭・教育・恋愛・職業体験などの個人史の結果とされ、階級や社会集団を構成しない孤立するプレカリアート(ニート、フリーター)を生み出した。
- 「社会的不平等の個人化」は、福祉国家化という近代の達成の必然的な結果でもある。ゆたかな社会と充実した社会保障によって伝統的な共同体(家族やムラ社会)から個人は解放され、それによってすべてのリスクを自分だけで背負うことになった。
- 前期近代では、伝統的共同体から解放された個人は、学校や会社、軍隊などの「近代組織」に組み込まれ、そこでの道徳や秩序(イデオロギー)に従った。後期近代の消費社会では「自己実現(自分さがし)」が人生の唯一の目的となり、「革命的個人」は「ナルシス的個人」に置き換わった(「第二の個人主義革命」)。
- 「自分自身に忠実であれ(=私らしく)」を価値規範とするナルシス的個人は、それ以外に参照すべき価値基準を持っていないため、根源的な不安にさいなまれる。自分を参照しながら自らの未来を決断する「再帰的」生き方は、おうおうにして無限ループへと陥っていく。
- 自分が自分にフィードバックしていく再帰的近代(後期近代)では、〈私〉を管理する自己コントロール能力がきわめて重要になる。わたしたちは絶えざる「自己点検」「自己評価」によって「自分は何者か」を説明しつづけなければならなくなるが、再帰的自己を完全にコントロールすることは原理的に不可能なので、この試みはいずれは破綻する。
ここで述べられているのは、「自分らしく生きたい」という当たり前の願望が「絶望」を生み出す冷酷なメカニズムだ。無縁社会は社会の病理ではなく、私たちがみずから望んだグロテスクな「近代の完成形」なのだ。
私の理解では、伝統的な政治空間(共同体)はグローバルな貨幣空間に侵食され、「家族」という最小の共同体まで解体されていく(家族が失われれば、あとは裸の個人が残っているだけだ)。その先にあるのは、砂粒のようなばらばらの個人が電脳空間でつながるまったく新しい社会空間かもしれない。これは薔薇色ではないかもしれないが、かといって暗鬱な未来というわけでもないだろう。ただひとつわかっていることは、私たちはこの新しい世界で生きていくほかはない、ということだ。
そんな〈私〉時代に、デモクラシーは可能なのだろうか。それについて宇野は、この本でいくつかのヒントを提示している。わたしにはその実現可能性を判断できないが、現状の正確な把握にもとづいた、現時点でもっとも良心的な提言であることは間違いない。