小さな政府によって整理統合されるのは中央官庁だけではない。官公庁にぶら下がっている特殊法人や政府系機関の類が全廃されるのは当然のこととして、その影響は地方自治体にも及ぶ。
地方交付税が廃止されれば、各自治体は独自に住民税を徴収して行政サービスを提供することになる。同じ行政機関であっても、地方自治体は国家とちがって住民の移動がきわめて容易だ。したがってそこには、市場競争のはたらく余地がある。税金が高くサービスの悪い自治体からは住民が逃げ出し、税収不足に陥った自治体は大規模なリストラを敢行するか、ほかの自治体に吸収合併されることになるだろう。国の関与をなくしただけで、自治体経営は消費者(住民)の自由な選択によって健全化するのである。
このように小さな政府のもとでは、市場圧力によって自治体は統合され、地方公務員や地方議員の数は減少していく。それと同時に、国会も参議院(なんのために存在するのかさっぱりわからない)を廃止し、衆議院の比例代表をやめ、現在の小選挙区を倍程度に拡大して150議席程度にする(もっと少なくてもいい)。国家の役割はきわめて限定されているので、国会には決めるべきことはあまりなく、会期は大幅に短縮されるだろう。地方交付税も公共事業も存在しないので、国会議員による地元への利益誘導もない。
国家の機能をここまで縮小してしまうと、当然、公務員数は激減する。だがそれによって失業率が上昇するというのは杞憂である。国家のくびきから解き放たれた「公的」サービスは、自由な市場のなかで爆発的な成長をはじめ、職を失った公務員を補って余りある雇用が発生するだろう。公的部門に残るのは市場競争に馴染まない仕事だけなので、身体障害者や精神障害者(彼らは市場競争においてハンディキャップを負っている)を優先的に雇用することで福祉を劇的に改善することも可能になる。
“リバタリアン日本”は、荒唐無稽なSFの世界ではなく、実現可能な未来である。日本国は民主制国家であるから、有権者の大半がこうした理想を共有するならば、国会における正当な手続きを経て「小さな政府」は成立するだろう(理屈のうえでは国家の廃棄すら可能である)。
人々はなぜ、「リバタリアン国家」を求めるようになるのだろうか。
日本を含め、先進諸国はどこも「大きな政府」を持て余しはじめている(北欧諸国を福祉国家の成功例とするのは適切ではない。人口が少なく、国民のほとんどが一部の地域に集中し、天然資源に恵まれたスウェーデンやノルウェーは、どちらかというとアラブ産油国に近い)。公的年金制度の破綻や医療保険(介護保険)の際限なき膨張によって国と地方を合わせた借金は1000兆円を超え、歳入(国と地方の総収入)が歳出(支出)の半分に満たない異常事態がつづき、国家予算の4割、約80兆円が国債の償還(借金の返済)と利払いに消えていく。世代間の不平等は今後ますます拡大し、国家による福祉制度は構造的に破綻する運命にある。これは「運命」なので、それがいつかは別として(日本は金持ちなのでけっこうがんばるかもしれない)、避けることができない。ようするに、私たちに残された選択肢はそれほど多くはないのだ。
はじめてリバタリアンの思想に触れたとき、正直、「なんて古くさいんだろう」と思った。一見して明らかなように、リバタリアニズムは(リベラリズムと同様に)近代的な主体、すなわち自由な個人に基礎をおいているが、それは1980年代に隆盛を迎えたポストモダニズムの思想によって徹底的に批判されていたからだ。
私はいまでも、「私」が社会的関係性の結節点にすぎず、「人間」は歴史的な創造物であると考えているのだが、その一方で、私たちの社会が幻想によって支えられていることも理解するようになった。紙幣は実体としてはただの紙切れにすぎないが、その一片の紙切れに、券面に印刷された数字と同じ価値が内在しているという共同幻想に依存しなければ、私たちが1日として生きていけないように。
近代的な主体の虚構性を抉り出すポストモダニズムの根源的な批判は魅力的だが、社会の変革にはなんの役にも立たず、いつしか無意味な言葉遊びに堕していった。それに対してフランス革命とアメリカ独立宣言を出自に持つ古色蒼然たるリバタリアニズムは、200年の時を経てもなお「改革」のヴィジョンを示すことができる。超近代(ポストモダン)はいつまで待っても訪れず、私たちはいまだに近代の枠組みのなかで生きており、それを「超えて」いくことはできないのだ。
リバタリアニズムの本質は、「自由な個人」という近代の虚構(というかウソ)を徹底する過激さにある。その無謀な試みの先に、国家なき世界という無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)のユートピアが蜃気楼のように浮かぶとき、人はそれを「希望」と呼ぶのかもしれない。
「はじめてのリバタリアニズム」(ウォルター・ブロック『不道徳教育 擁護できないものを擁護する』〈講談社2006年2月〉所収)より抜粋