ハイパーインフレが富裕層の顔ぶれを一転させた
コーヒーを飲み終えると、東京駅前のハイアールビルにある会社に向かう。金融危機前は丸ビルの愛称で知られていたが、いまや覚えているひとはほとんどいない。それ以外にも、サムソンプラザやタタ・ヴィレッジなど、東京都心の不動産はほとんどが外国企業に買収されてしまった。
私は三十代半ばまで、大手電機メーカーの技術者だった。海外企業との価格競争に巻き込まれてボーナスは年々減らされたが、会社にしがみついていれば定年まで食いつなぐことはできるだろうと、漠然と信じていた。
だがハイパーインフレが、すべてを変えてしまった。
最初に、年金生活の高齢者が家を失って路上生活を始めた。日比谷公園ではホームレスのための炊き出しが1日3回行なわれていて、1万人ちかくが公園内で暮らしている。同様に上野公園や新宿中央公園、荒川の河川敷もダンボールハウスで埋め尽くされた。
次いで、公務員のストライキが頻発するようになった。失業率は30%に達し、街には浮浪者が溢れていた。政治家は公務員の給与を引き上げることに二の足を踏み、実質給与はいまやかつての半額以下になった。週刊誌には、事務次官の妻がコンビニでレジ打ちをしたり、財務官僚の娘がキャバクラで学費を稼ぐ様が面白おかしく取り上げられた。
その大混乱を見て、生来臆病な私も、このまま座して死を待つわけにはいかないと腹をくくった。わずかな退職金で会社を辞め、まったく縁のない不動産営業の世界に飛び込んだのだ。
生き延びるために不動産業を選んだのには、理由がある。
半年ごとに政権と首相が変わったあげく、日本がIMF管理になるとの憶測が流れて、ようやく超党派の救国内閣が成立した。新政権の喫緊の課題は財政の健全化で、消費税率は25%になり、年金の受給年齢は70歳に引き上げられた。医療・介護サービスは保険料が大幅に上がり、自己負担は5割で、歯科治療が健康保険から外された。
財政再建の道筋が見えると、東京の中心部から不動産価格が上昇しはじめた。円安と地価の暴落によって、外国人投資家にとっては、銀座の一等地がかつての5分の1の価格で買えるようになったのだ。
私の唯一の取り得は、ビジネス英語が話せることだった。辞書を引きながら徹夜で契約書を翻訳し、欧米はもちろん中国やインド、東南アジアの投資家に東京の不動産を営業して回った。
私が契約営業マンになったのは財閥系の大手不動産会社の子会社だったが、いまでは親会社もろとも中国の投資会社に買収され、社員の半分が中国人、香港人、シンガポール人、中国系アメリカ人になった。外国人投資家は彼らが直接営業するから、私は日本人顧客の担当に変わった。
日本経済が大混乱に陥ったとき、バーゲンハンターとして登場したのは海外投資家だけではなかった。ほとんど知られていなかったが、金融危機以前に巨額の外貨資産を保有していた多数の日本人投資家がいたのだ。
ビデオ会議で上海の本社に営業報告をしてから、表参道に向かう。最初の顧客は、三十代前半の若者だった。
大学を中退してFXとパチスロで生活していた彼は、1ドル=100円から300円に通貨が下落する過程で、レバレッジをかけた巨額の外貨ポジションをつくり、30億円を超える利益を得た。その資金を元手に不動産投資を始め、いまでは渋谷や青山に数棟のビルを保有している。金融危機から3年で、日本の富裕層はほぼ全面的に入れ替わってしまった。