日本人は中国人に謝罪すべきか(1)

「リバタリアニズムとコミュニタリアニズム」というエントリを書いた時に、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』(これは素晴らしい本だ)を読んでいて、もうちょっとちがう議論ができるんじゃないかと感じたことを思い出した。このままだとすぐに忘れてしまうので、ちょうどいい機会だからアップしておきたい(長文なので3回に分けます)。

サンデル教授は、「正義」をめぐるコミュニタリアン(共同体主義者)とリバタリアン/リベラリスト(自由主義者)の対立を、「先祖の罪を償うべきか」という問題で考える。

リバタリアンはもちろんリベラリストも、「自由と自己責任」をセットとする近代的な自我だけが「正義」の根拠だという立場を共有する。サンデル教授はこれを「道徳的個人主義」と呼ぶが、自分が自由な意思で選択したことにしか責任が負えないとすると、彼らの論理では先祖の罪を償うことはできない。これは利己主義ではなく、自らの「正義」に誠実であればあるほど、ホロコースト(ドイツ)や従軍慰安婦(日本)や国家によるアボリジニの子どもの「誘拐」(オーストラリア)に謝罪することはできないのだ(いずれもサンデル教授が提示する例だ)。

こうした道徳的個人主義に対してサンデル教授は、「自由と自己責任」の美名の背後に巧妙に隠された欺瞞を見抜く。道徳的に中立な立場をとれば、過去の奴隷制度や民族絶滅計画や侵略戦争に対する責任から逃れることができるからだ。しかしこれは、偽善であって正義ではない。

それに対してコミュニタリアンは、家族への愛情、仲間との連帯、共同体への忠誠を「善」とし、それを個人を超越する義務と見なす。このことをサンデル教授は、アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』(これも素晴らしい本だ)を引きながら、魅力的に語る。すなわち、ひとはみな「物語る存在」で、私たちは抽象的で空疎な「近代的自我」などではなく、歴史や共同体という「大きな物語」の一部として、人生という物語を演じているのだ。

コミュニタリアンは、共同体に対する連帯責任(同意を超越した責務)を自らの意思で引き受ける。だからこそ彼らは、自分が生まれる前の国家(共同体)の不正義に謝罪できるし、それこそが共通善(美徳)なのだ。これはもちろんきわめて難しい道であるが、「正義」はそこにしかないとサンデル教授は説く。

もちろん、サンデル教授の論理には一部の隙もない。でも、こんな疑問を感じないだろうか。

典型的なコミュニタリアンは(サンデル教授も述べるように)愛国者のことで、日本では「保守主義者」と呼ばれる(アメリカでは「共同体に忠誠を誓って国家と対立する」という有力な政治的立場があり、実はこれが草の根的なリバタリアンの思想なのだが、この話題はまた別の機会に)。だが小林よしのりや櫻井よしこのような正統な保守主義者は、過去の侵略戦争に対して中国や韓国に謝罪したりはしない(「侵略」かどうかというやっかいな問題はここでは置いておく)。

その一方で、アメリカのリベラル思想の柱石であるジョン・ロールズ(『正義論』)は、共同体への責任(政治的責務)を自らの意思で引き受けた者(政治家など)以外は、自分の与り知らない過去に対する責任はないとする。ところが日本では、過去の侵略戦争の責任を問うたり、従軍慰安婦への謝罪と賠償を求めるのはリベラルなひとたちばかりだ。

サンデル教授が正しいとすれば、日本の保守派やリベラル派はみんな間違っていることになる。保守派は日本国という物語に対して連帯責任を負うのだから、中国に謝罪すべきである(歴史的事実に関する論争はあるだろうが、日中戦争や植民地化のすべてを「正義」と強弁するひとは少数派だろう)。リベラルというのは「自由」を至上の価値として奉じることだから、自分が生まれる前の出来事に対して謝罪したり賠償したりするのはおかしい。

もちろん、サンデル教授は正しいにちがいない。保守派もリベラル派も、「哲学」としてとてもトンチンカンなことをやっていて、しかもその間違いに気づかないのだ。

でも……。

論理としていくら正しくても、現実(保守主義者は謝罪せず、リベラル派は謝罪する)を説明できない政治哲学にどれほどの意味があるのだろう。

これが、私の疑問だ。

私見によれば、「日本人は中国人に謝罪すべきか」という政治哲学的な問いは、「法人」という概念を使うことで、もっと合理的かつ現実的な議論ができる。

次回はそのことを述べてみたい。