私たちは、国家は国民の生活を守るものだと当たり前のように信じている。確かに日本国は、外国からの侵略を防ぐための軍隊と、治安を維持し犯罪を摘発するための警察力を擁している。だが国家が、すべての貧しく不幸な人たちを救済してくれるわけではない。
日本国は現在、公園や河原で暮らす日本国民を劣悪な生活環境の中に放置している。住む家もなく、残飯を漁る以外に生きる術を持たない彼らは紛れもなく日本社会の最貧困層であるが、国家が保護の手を差し伸べることはない。なぜなら、生活保護は自治体が支給するものであり、申請の要件として住民登録が必要とされているからだ。住所を持たないホームレスは行政上「存在しない人々」であり、保護の対象にはならない。だがこれは欺瞞ではないだろうか?
ホームレスに対して「自己責任」を問う人がいる。彼らは自ら望んで社会からドロップアウトしたのだから、国家が保護を与えるのは彼らの意思に反することになる。生活保護が必要なら、いつでも公的機関に援助を求めればいい――。だがこの主張は、事実においても、論理としても誤っている。
精神科医は、ホームレスの多くが精神障害者であると推定している(1)。貧困の原因が心の病いにあるのなら、「自己責任」を問うことはできない。行政がこの事実から目をそむけるのは、生活保障や医療援助を与えない「正当な」理由を失いたくないからだ。
何人も社会生活を放棄する自由や、国家からの保護を拒否する権利を有している。その意思を尊重しなければならないのは当然だが、だからといって「自分は貧しい」と自己主張する人だけを援助すればいいということにはならない。社会保障は心理的・主観的な要素ではなく、外形的・客観的な基準で分配されるべきだ。そうでなければ、行政の複雑なルールを理解し、それに則って「意志」を表明する能力を持たない人はすべて見捨てられることになる。
とはいえ、私は「ホームレスに生活保護を支給せよ」と主張するつもりはない。国家の正義は、すべての国民を平等に扱うことを要請している。ホームレスを社会保障制度から排除するならば、彼らよりも相対的に豊かな「貧困層」への生活保護を廃止することで、正義に適う社会を実現できるだろう。
日本国の現状において生活保護は、政治家の集票活動や宗教団体の布教活動の一部として扱われている。政治的発言力(選挙権)のない人間を助けても、彼らにとっては何の利益にもならない。最貧困層に生活保護費を振り分けることは、有力な選挙基盤の既得権を奪うことになる。これが、ホームレスが放置される政治的な理由だ。
国家が個人に直接、現金を供与する形態の社会保障は、どの先進諸国でも機能しなくなってきている。ひとたび生活保護を受け取れば、その収入に依存し、労働意欲を失ってしまう。時給800円で1日8時間働いて月10万円を稼ぐより、何もせずに月額10万円の保護を得られるなら、その方がいいに決まっている。それを精神論で叱咤激励しても意味がない。
貧しい者がより貧しい者を搾取する制度は、社会の歪みを拡大する。それは共同体のモラルを融解させ、破綻と混乱へと至るだろう。
(1)日本において、ホームレスに対する精神医学的な統計調査が行なわれたことはないが、米国ではホームレスの80%以上が薬物・アルコール中毒であり、約半数が統合失調症などの精神障害を患っているとされている。
橘玲『雨の降る日曜は幸福について考えよう』(幻冬舎)2004年9月刊
文庫版『知的幸福の技術』(幻冬舎)2009年10月刊