国家に国民を保護する義務はない

ジャーナリストや市民活動家がイラクで人質になったことをきっかけに「自己責任」が話題になった。私は彼らの行動に対して、ごく常識的な感想しか持っていない。危険だとわかっている地域に自らの意思で出かけた以上、自己責任は当然だ。しかしそれは、見殺しにされても当たり前、というような罪ではない。

自己責任を問う政治家が、「反日的分子には国に助けを求める権利はない」と発言した。日本国憲法にあるように、国家は宗教や思想信条で国民を差別してはならないのだから、これは明らかな暴論である。それに対し、「自己責任」の大合唱を批判する人たちは、「国家には自国民を均しく保護する義務がある」と反論する。こちらは一見正論だが、私は少し違う意見を持っている。

イラクでの人質以外にも、海外で事故や犯罪に巻き込まれ生命を落とす日本人は多い。だがその度に日本国が総力を挙げて被害者を救出するかというと、そんなことはない。そもそも日本大使館には邦人旅行者を援助する機能はなく、生死に関わる場合は別として、助けを求めても現地の関係機関を紹介されるだけだ(1)

大使館の仕事は政治家の旅行手配と国際会議の日程調整であり、国営旅行会社の現地事務所のようなものだ。限られた予算と人員で業務を行なうためには、「顧客」ではない一般邦人の面倒など見てはいられない。そうでなければトラブルを抱えた旅行者や在留邦人が押しかけて、収拾のつかない事態になってしまうだろう。海外旅行の原則は、そもそも自己責任なのだ(2)。そしてこれは、一概に批判されるべきこととは言えない。

今回の人質事件で一時期、危険地域への渡航制限が議論になった。「テロリストや犯罪者との交渉には大きな危険を伴うから、身勝手な行動に振り回されるのは理不尽だ」との主張には一定の説得力がある。国家に無制限の保護を求めれば、その代償として移動の自由を放棄しなければならない。これは私たちにとって、有利な取引とは言えないだろう。

国家の提供する社会保障においても同様の事態は免れない。日本国憲法は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を認めているが、誰が保護されるべき「最低限度」以下の国民なのかを国家に決めさせることは、プライバシーへの全面的な介入を誘発する。生活保護を申請する際には、個人の収入や資産だけでなく、離婚歴や病歴、親子・兄弟・親戚の家計状況まで調査されるという。ここでも国家の保護は、権利の放棄と引換えになっている。

自己責任は自由の原理であり、私たちが国家から自らの権利を守るための大切な武器である。人は自由に生きる方が幸福だ。そう考えるならば、国家に必要以上の「義務」を負わせてはならない。

これまで日本人は、国家に対して母親のような役割を求めてきた。国家を批判する人ほど国家の「義務」を声高に語るが、その過激さは彼らの忌み嫌う「国家主義者」と瓜二つだ(3)

より多くの義務を負う国家は、国民の私生活へのより大きな介入を正当化できる。私たちが「自己責任」を生きなければならない理由はここにある。

「国民を保護するやさしい国家」ほど危険なものはない。自由な社会は、国民に対して均しく冷淡な国家からしか生まれない。

(1)日本国の主権は日本国の領土内でしか行使できない。日本国外に滞在する邦人の保護は、それぞれの国の主権において行なわれる。日本大使館は事実上、相手国に対して邦人保護を依頼することしかできない。
(2)外務省予算に「邦人保護費」はほとんどない。大使館の事務員は、「日本人旅行者が助けを求めてきたら追い返せ」と教えられている。ただし、生命にかかわる場合は特例として援助してもらえるようだ。

(3)国家主義者もまた、国家による自国民の保護を当然の義務と考えるだろう。

橘玲『雨の降る日曜は幸福について考えよう』(幻冬舎)2004年9月刊
文庫版『知的幸福の技術』(幻冬舎)2009年10月刊