前回は、日本の銀行の「ハンコ原理主義」でいかにみんなが迷惑しているかについて書いた。でもいちばん困っているのは、日本に住む外国人だ。
知り合いのカナダ人から、「舞恋人」というハンコを見せられた。怪訝な顔をしていると、「お前は日本人のくせに漢字も読めないのか。ブレントだよ」と馬鹿にされた。ドイツ人で、「趣味人」という洒落たハンコを持っている友人もいた。こちらは「シュミット」と読む。
日本の銀行は、外国人でも正規のビザを持っていれば口座を開けてくれる。だけどそのためには銀行印が必要だ。それで、名前に似せたヘンテコなハンコをつくるようになった。
だけど、みんながぴったりの漢字を思いつくわけじゃない。今ではいろんな国から人々がやってくる。たとえばアハマディネジャド(イラン大統領)という名前だったら、どんなハンコにするのだろう。
もちろん日本にも、シティバンクや新生銀行のようにサインで口座開設できる銀行がある。外国人の多くは、こうした金融機関を使っている(おまけに英語も通じる)。だけど近所に支店があった方が便利だったり、田舎暮らしをしていることだってあるだろう。そんなときはどうするんだろうか。
この謎は、実は簡単に解けた。ある日、オーストラリア人の友人が大手都市銀行の通帳を持っているのに気づいたのだ。
「よく口座が開けたね」と、僕。
「なんで? 簡単だよ」と、不思議そうな顔をする彼。
「銀行印、つくったの?」
「そんなことしないよ。ぜんぶサインだよ」
こうして僕は驚くべき事実を知ることになる。日本の銀行は、外国人に対してはサインで取引することを認めているのだ。
最初のうちは、日本人と同じく銀行印を要求していたのだろう。ところがそのうちに、「俺の名前をどうやって漢字にするんだ」との苦情があちこちから出るようになった。返答に困って、なし崩し的にサインを認めるようになったのだろう。
でもこれは、明らかに理不尽だ。少なくとも僕は、日本の銀行でハンコの代わりにサインを使っている人を見たことがない。「これからはサインでもいいですよ」と説明された記憶もない。なぜ外国人だけが特別扱いされるのか。
だけど僕には、日本人への逆差別に抗議する以上に、もっと切実に知りたいことがあった。
「ねえ。いったいどこにサインしてるの?」
彼は、ものすごく凝ったサインを自慢にしていた。
「それがちょっと大変なんだよ」と、顔を曇らせる。「ハンコを捺すあの小さな枠内にサインしろっていうんだよ。で、いつも黒く塗りつぶしちゃうんだ」
彼が悪戦苦闘する姿を想像して、僕は腹を抱えて笑った。それから、なぜかちょっと哀しくなった。
橘玲の「不思議の国」探検 Vol.4:『日経ヴェリタス』2009年11月15日号掲載
禁・無断転載
●読者の方より、「外国人ノ署名捺印及無資力証明ニ関スル法律」に下記の条文が定められているとの情報提供をいただきました。
第一条 法令ノ規定ニ依リ署名、捺印スヘキ場合ニ於テハ外国人ハ署名スルヲ以テ足ル
2 捺印ノミヲ為スヘキ場合ニ於テハ外国人ハ署名ヲ以テ捺印ニ代フルコトヲ得
●読者の方より、印章は漢字だけでなく、カタカナやアルファベットでも認められるとの情報提供をいただきました。