黄金の雨を降らせる秘密の鍵
日本をはじめとする主要国は、タックスへイヴン対策税制や移転価格税制などによって国外への利益流出を防ごうとしている。日本の税法では、法人税率二五% 以下の軽課税国をタックスへイヴンと規定し、IBCの所得を実質的な所有者である日本居住者(個人・法人)の所得と合算して申告・納税する。市場価格と乖 離した価格でIBCに移転された利益は、適正な価格で再計算されて日本側で課税される。
だがこうした対策で課税可能な のは、親会社―子会社のような自己取引だけで、第三者との取引には適用されない。このことをもっと簡単にいえば、法人の真の所有者が把握できなければ課税 はできない。これが、リヒテンシュタインのような小国に黄金の雨を降らせる秘密の鍵となった。
登記の本来の役割は、取 引にあたって公開すべき情報を公的な記録簿に登録することだ(不動産登記がなければ、売主がほんとうに不動産を所有しているかどうか買い手は判断できな い)。その意味で登記を非公開にするのは不合理だが、基本的人権など“普遍的”なルールに反しないかぎり、民主的な政府はどのような奇妙な法律を制定して も国際社会から尊重されることになっている。もちろん国民は、IBCの登記を非公開にすることで巨額の税収が転がり込んでくるのなら、諸手を上げて賛成す るだろう。
タックスへイヴン国では、法律事務所などの代理人が真の受益者に代わって法人や信託の代表者になることがで きる。実質的な所有者のわからないIBCを株主として新たな法人を設立したり、銀行口座を開設することも可能だ。こうした手法を組み合わせれば、法人が誰 のものかを調べるのはほぼ不可能になる。
法人というのは、その名のとおり法的な「ひと」のことだ。リヒテンシュタイなどのタックスヘイヴンを使えば、市場参加者は取引に“匿名のひと”を介在させて二重課税を回避し、なおかつ無税で利益を蓄積することができる。いうまでもなく、これは法外に有利な取引だ。
このようにして、山のなかの小さな村に人口をはるかに上回る数の法的な「ひと」が居住するようになった。
錬金術のほころび
国外所得の非課税化と法人の匿名化はタックスヘイヴンの富を支える車の両輪だ。だが最近では、この錬金術にもほころびが目立つようになった。
スイスの大手プライベートバンクUBSは、富裕なアメリカ人の脱税を幇助したとして米司法省に訴えられ、7億8000万ドル(約750億円)の罰金を支払 い、さらに5万2000件の顧客情報の開示を迫られている(本号発売時には和解が成立しているかもしれない)。リヒテンシュタイン最大のプライベートバン クLGTは、元職員が持ち出した顧客情報1400件がドイツ連邦情報局の手に渡ったことで、経済界の大立者であるドイツポスト会長が脱税容疑で逮捕される というスキャンダルを引き起こした。LGTはリヒテンシュタイン家が経営する金融機関で、国家のタックスへイヴン政策を支えていた。
いくら簡単に法人を設立できても、決済機能を持つ銀行口座がなくてはなんの役にも立たない。リヒテンシュタインは法人(信託・財団)と銀行口座をセットで提供したからこそ、世界じゅうから顧客を集めることに成功した。
現在はどのタックスへイヴン国も、自国の金融システムをマネーロンダリングなどの犯罪から守るため、金融機関に対して真の受益者を把握するよう義務づけて いる(KYC=Know Your Customerの原則)。法人や信託を使ってどれほど偽装しようとも、誰かがサインしなければ銀行口座の資金は動かせない。その個人こそが口座の実質的 な所有者なのだから、口座情報を税務当局に開示させれば、タックスへイヴンを利用した税逃れはほぼ不可能になる。このようにして国際社会の圧力は、銀行守 秘義務に集中するようになった。UBS問題でスイス政府が頑強に抵抗したことからもわかるように、ここが彼らの生命線だ。
もっとも主要先進国の側も、この戦略に限界があることは認識している。国際社会の原則では、その規模にかかわらず国家と国家は対等だ。タックスヘイヴン国に顧客情報を開示させるなら、彼らの求めに応じて自国の個人情報も提供しなくてはならない。
主権とは「神の如き至高の権力」のことで、いうまでもなくただの虚構に過ぎない。だが近代世界がこの虚構に基づいて成立している以上、私たちはそのくびきから逃れることはできない。
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ファドゥーツの中心部に点在するオフィスビルに、プライベートバンクや法律事務所、会計事務所などが集まっている。だが観光客のほとんどは、なんの変哲もないその建物が租税回避という巨大ビジネスの拠点であることに気づかない。
雲が晴れれば、街の高台から緑に覆われた山々が一望できる。その雄大な自然は、善や悪を言い争うことのむなしさを教えてくれる。
タックスヘイヴンはいま、国際社会との協調を模索しながら、その姿を変えようとしている。だがこれまでのように、租税回避の道具を安直に提供できなくなったとしても、「無税の楽園」がこの世界から消えることはないだろう。
市場と国家という、近代の抱える根源的な矛盾からこの奇妙な場所は生まれ、私たちの欲望によって育てられたのだ。
橘玲 『ファンド情報』(格付投資情報センター)2009年8月10日号