チューリッヒから湖に沿って列車で1時間ほど南東に下り、山間の保養地サルガンスでバスに乗り換えて約30分で終点のファドゥーツに着く。道中はのどかな田舎の風景がつづき、検問はおろか国境を示す標識すらないが、小川をひとつ渡ればそこは世界でもっとも小さな国のひとつ、人口3万4000人のリヒテンシュタインだ。
首都ファドゥーツの中心は郵便局で、そこに観光案内所、歴史博物館、バスターミナルなどが集まっている。街を見下ろす山の中腹に中世の古城があり、リヒテンシュタイ家の当主であるハンス・アダム二世がいまも暮らしている。1719年、ハプスブルク家の高官であったヨハン・アダム・アンドレアス侯爵が神聖ローマ帝国より侯国の認可を受けたのが国のはじまりで、ナポレオン革命とドイツ連邦成立という一九世紀初頭の大動乱を生き延びて、国連に正式加盟する主権国家の地位を獲得した。
リヒテンシュタインは風光明媚な観光地で、冬のスキーリゾートとしても知られている。名産品は乳製品とチョコレートで、ブランドショップの並ぶ商店街を除けば鄙びた古都の風情だ。それが奇異な印象を与えるとすれば、カメラを構える観光客に混じって、アタッシュケースを片手にダークスーツに身を包んだビジネスマンが行き交うからだろう。
侯爵家の卓抜な経営手腕により、山に囲まれた豆粒のような領地は世界でもっとも豊かな国のひとつに成長した。その最大の“輸出品”は、タックスヘイヴンだ。
「邪悪の国」の首都
タックスヘイヴン(租税回避地)は所得税・法人税等が無税もしくはきわめて低い国や地域の総称とされるが、その実態は「主権を利用した国家ビジネス」と考えるとわかりやすい。
リヒテンシュタインは所得税、贈与・相続税など直接税のないヨーロッパの代表的なタックスヘイヴンだが、こうした特権は数少ない国民にしか与えられず、経済的な利益を生み出すわけではない。カジノとF1グランプリで知られるモナコ公国が億万長者の移住を積極的に受け入れているのに対し、リヒテンシュタインはきわめて厳しい移民規制を敷いており、市民権はもちろん労働ビザを取得することすら困難だ。この国で働く外国人はスイスやオーストリアに住み、国境を越えて毎日“通勤”してくる。
「個人」の移住を制限する一方で、リヒテンシュタイは「法人」の移住すなわち登記を寛大に受け入れている。この国では外国人であっても、事業法人(会社)や財団法人(信託)を簡単に設立できる。それらの大半はペーパーカンパニーで、そこから得る法人住民税(登記料)だけで税収の四割を占める。その財源をもとにして、国民は“無税生活”の特典を享受しているのだ。
ところでひとはなぜ、わざわざ面倒な手間をかけ、登記費用まで払って、山の中に法人をつくろうするのだろうか。その理由は、誰もが知っているように、租税回避の道具に使えるからだ。
今年4月の主要20カ国・地域(G20)金融サミットでは、「有害税制」対策が主要議題のひとつとされた。経済協力開発機構(OECD)が公表したタックスヘイヴンのグレーリスト(OECD基準を満たしていない金融センター)にも、スイスやルクセンブルクと並んでリヒテンシュタインの名前がある。だが時の止まったようなファドゥーツの街を散策しても、ここが「邪悪の国」の都だという実感はない。
タックスヘイヴンを脱税の温床と見なすのはあながち間違っているわけではないが、それだけではなぜ、このような国家が存在するのかを理解することはできない。税金のない「不思議の国」の誕生には、必然的な理由がある。