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「国保逃れ」疑惑、背景に社会保険料との負担格差(日経ヴェリタス連載126回)
日本維新の会の地方議員が、一般社団法人の理事になることで、国民健康保険の保険料を脱法的に安くしていたことが問題になった。社会保障制度改革を掲げる党の議員が制度を悪用していたのだから弁解の余地はないが、それでも気になったのは、どのメディアも「なぜ国保から逃れようとするのか」という疑問に触れようとしないことだ。
現役世代の大半は会社の社会保険に加入しているから実感がないだろうが、自営業者らが加入する国保の保険料はきわめて重い。
国保の保険料は自治体ごとに異なるが、「年収600万円の会社員の夫に専業主婦の妻と子どもが2人いる世帯」が納める健康保険料(本人負担)が年間およそ33万円なのに対し、同じ所得レベルの自営業者の世帯負担は計算上、82万円あまりになる(東京都の場合)。
同じ公的健康保険なのになぜこんな極端なちがいが生じるかというと、国保では専業主婦の妻はもちろん、ゼロ歳の子どもにまで保険料が課せられるからだ(子どもについては自治体が免除や減免措置を設けているところも多い)。その結果、「国保の保険料は社会保険の2倍」といわれている。
じつは国保加入者の多くは自営業者ではなく、退職した元会社員だ。75歳で後期高齢者医療保険に移行するまでは、社会保険から脱退すると国保に加入することになる。
国保の保険料が重いなら、なぜ年金収入しかない高齢者が支払えるのだろうか。その理由は単純で、低所得者への手厚い軽減措置があるからだ。たとえば夫婦2人の世帯の場合、前年の所得金額が53万円以下なら保険料の7割が軽減される。その結果、国保加入者の約6割が満額の保険料を払っていないという異常なことになっているが、この軽減措置は一定以上の収入がある世帯には適用されない。
このような現状では、国保の保険料は、子どもを育てながら働いている現役世代の自営業者への罰ゲームになっている。こども家庭庁は日本を「子どもまんなか社会」にすると宣言しているが、これが「老人まんなか社会」である日本の現実なのだ。
そこでこの負担から逃れるために、便宜上、社会保険に加入するという裏技が編み出された。月額報酬を6万3000円(年収75万6000円)以下にすれば、健康保険料を月額6670円(労使込み)にしたうえで、なおかつ扶養家族の健康保険証を無料で取得できる。
もちろんこんな収入では生きていけないだろうが、現行の制度では、他に所得があっても、社会保険の適用事業者の社員になると、社会保険に強制加入させられる。この制度をハックすると、自営業者として多額の所得を得ていても、“偽装社員”になることで年金や健康保険のコストを最小化できるが、それを「ずるい」と批判する資格があるのは、真っ当に国保の保険料を払っている者だけだろう。
なお、自営業者の法人成りであるマイクロ法人でも、自分で自分に払う役員報酬を引き下げれば同じことが可能だが、役員報酬を減らした分だけ法人の所得が増えて、それを法人税で納付することになる。これは単に、個人で納税するか、法人で納税するかの選択の問題なので、「脱法」ではなく合法的な社会保険料の節約になる。
橘玲の世界は損得勘定 Vol.126『日経ヴェリタス』2025年2月28日号掲載
禁・無断転載
リベラルは成功したからこそ失敗した(週刊プレイボーイ連載674)
世界的に「リベラルの失敗」が議論されています。しかしこれは、「リベラルズムが間違っていた」ということではありません。それとは逆に、「リベラルはあまりに成功したからこそ、失敗した」のです。
リベラリズムを「自分らしく生きるのは素晴らしい」という価値観と定義するならば、「私は自分らしく生きるが、あなたにはその権利がない」ということはできません。こうしてリベラルは、性別や人種、性的志向など自分では変えることのできない属性による差別を否定し、すべてのひとに平等な機会を与え、理不尽な差別に苦しんでいた多くひとたちの人生をよいものに変えました。
これはもちろん素晴らしいことですが、女性や有色人種、同性愛者などマイノリティの法的権利が次々と認められるにつれて、運動は行き詰まってしまいます。低い枝に実った果実を収穫してしまえば、あとは高い枝に手を伸ばすしかありませんが、それは簡単ではないのです。
そこでリベラルは、大きく2つの戦略に頼ることになりました。
1つは「マイノリティ探し」で、社会のなかで差別されている新たな集団を見つけて、それを運動の核にしようとしました。こうして「発見」されたのがトランスジェンダ―ですが、その割合は多く見積もっても人口の0.5%程度で、(その運動が無意味とはいいませんが)大衆の広い共感を得ることはできませんでした。
もう1つは、法律以外のさまざまな「制度的差別探し」で、そうした問題が残っているのは間違いないとしても、自分たちを「目覚めた者(ウォーク)」として、白人や男性などマジョリティの「無意識の差別」を上から目線で批判する態度に強い反発が生じたのは当然です。
しかしより本質的な困難は、リベラルな社会がメリトクラシーを土台としていることです。
日本では「能力主義」と訳されますが、「メリット」の本来の意味は、学歴・資格・経験(職歴)のような「客観的に評価できる人的資本」のことです。リベラルな社会では属性にもとづく選別は許されませんが、それでも組織を維持するには、入学や採用・昇進などで個人を評価することが必要になります。このとき唯一公正な評価基準が、「努力によって獲得できる(とされている)メリット」なのです。
しかしいうまでもなく、これは机上の空論です。メリットは知能に強く依存しており、知能のばらつきの大半は環境ではなく遺伝によってほぼ決まるからです。こうして、メリットをもてないひとたちが知識社会から「脱落」し、怨嗟の声をあげるようになりました。
しかしリベラルは、この事態にまったく対応できません。平等な社会では、成功できないのは「自己責任(努力が足りないから)」になるしかないのです。
だったら、メリトクラシーを廃止すればいいのでしょうか。でもこれでは、個人を身分によって差別する前近代の社会に戻ってしまいます。メリトクラシーが問題であることはわかっていても、誰もその代案を出すことができないのです。
ひとつだけ確かなのは、これがリベラルが嫌われる理由だとするなら、この状況を変えるのはほとんど無理ということです。
『週刊プレイボーイ』2026年3月2日発売号 禁・無断転
エチオピアとジャマイカを結ぶラスタファライの数奇な歴史
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2019年9月公開の記事です。(一部改変)

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アディスアベバなどエチオピアの都市では、タクシーやトゥクトゥク(オート三輪タクシー)の車体や窓にボブ・マーリーのステッカーが貼ってあるのをよく見かける。
ボブ・マーリーはジャマイカが生んだミュージシャンで、1970年代のレゲエブームを牽引し、脳腫瘍のため1981年に若干36歳で世を去った。しかし、この不世出の大スターとエチオピアにどんな関係があるのだろうか。
今回はアメリカの音楽ジャーナリストで、ボブ・マーリーとも親交の厚かったスティーブ・デイヴィスの『レゲエ・ブラッドライン 第三世界ジャマイカ、その音楽、風土、文化、時代の変遷』(中江昌彦訳/クイックフォックス)にもとづいて、カリブ海に生まれた「ラスタファライ(ラスタファリ)」という宗教とレゲエミュージックの数奇な歴史について紹介したい。
「奴隷の子孫」である黒人をアフリカに帰還させる
マーカス・ガーヴェイは1887年、ジャマイカ北部の都市セント・アンに生まれた。ラスタファライの歴史は、この黒人運動家から語りはじめなくてならない。ちなみにそれから60年後の1945年、同じセント・アンでボブ・マーリーが生まれている。
15歳でジャマイカの首都キングストンに出たガーヴェイは、アフリカ帰還運動に大きな影響を受けた。
19世紀初頭からアメリカの黒人のあいだで、「たとえ奴隷制が廃止されても人種差別が激しいアメリカでは自由で幸福な人生は手に入らない」として、「故郷」であるアフリカに帰還すべきだという主張が唱えられるようになった。これがアフリカ帰還運動で、1816年に結成されたアメリカ植民協会(American Colonization Society)が西アフリカに「リベリア(Liberia/自由)」という植民地をつくって自由黒人を移住させた。
20世紀を迎える頃には、アフリカやアジアで反植民地主義の独立運動が勃興した。ガーヴェイが体験した「アフリカ帰還運動」はこの第二波で、アフリカをアフリカ人の手に取り戻して「黒人国家」を独立させ、そこに奴隷として全世界に散らばった黒人のディアスポラ(追放者)が帰還する夢が語られた。――ここからわかるようにアフリカ帰還運動は、「故郷」であるパレスチナにユダヤ人国家を建設するというシオニズム(シオン運動)の黒人ヴァージョンでもあった。
ガーヴェイは20歳のときに印刷所の工員のストライキを指導したのち、説教師、町の事業家としてキングストンの名士になっていく。その後、29歳でアメリカに渡ったガーヴェイは、1917年に全米黒人地位協会(UNIA)を創立、当初は会員の相互扶助を目的としていたが、第一次世界大戦後の民族自決の熱気のなかで、アフリカ帰還を通して黒人救済を目指すようになった。
ガーヴェイはニューヨークで『ニグロ・ワールド』という新聞を発行し、「ひとつの目的、ひとつの国家、ひとつの運命」を掲げた。「目的」とはアフリカに黒人の国家をつくることであり、すべての「奴隷の子孫」たちが故郷に帰還することだった。
UNIAは本部をニューヨークのハーレムに構え、アメリカ、カリブのみならずアフリカにまで支部を置き、一説によると600万人もの会員が集まった。ジャマイカ生まれの無名の黒人は、わずか数年でアメリカの黒人運動の立役者に成り上がったのだ。
アメリカ中でアフリカへの帰還を布教したガーヴェイは、訪れる町の黒人コミュニティから救世主のごとく歓迎された。それはまさに、「ガーヴェイ教」という新たな黒人宗教の誕生だった。 続きを読む →