『「リベラル」がうさんくさいのには理由がある』文庫版あとがき


本日発売の『「リベラル」がうさんくさいのには理由がある 』文庫版あとがきを、出版社の許可を得て掲載します。新刊『朝日ぎらい』と合わせてお読みいただければ。

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PART0(「『リベラル』の失敗」)は単行本時の書き下ろし、エピローグ(「まっとうなリベラルを再生するには」)はWEBに掲載したものですが、それ以外の文章は2014年5月から16年4月まで「週刊プレイボーイ」誌に連載したコラムで、いちばん古いものは4年前になります。

その後世界は、EU離脱を決めたイギリスの国民投票(18年6月)とドナルド・トランプのアメリカ大統領選勝利(同11月)という予想外の出来事に大きく動揺しましたが、世界的に株価は上昇し、少子高齢化で人手不足が顕在化した日本では完全失業率が2.5%と過去最低水準で、18年春に卒業した大学生の就職率は98.0%と大卒のほぼ全員が就職できる「全就職」時代が訪れました。経済格差の拡大などさまざまな問題が指摘されているとはいえ、全体としてみれば「それほどヒドいことにはならなかった」ということでしょう。

この「文庫版あとがき」を書いている時点で、与党が「働き方改革」関連法案を強硬採決したことで国会が混乱しています。厚生労働省の調査データが不適切だったとして裁量労働制の対象拡大が撤回されたものの、野党が「高度プロフェッショナル制度」を「過労死法案」だと反発し審議が決裂したのです。

ところで、いま行なわれている「働き方改革」の議論は、本書PART2「日本人の働き方はこんなにヘン」で述べたこととまったく同じです。なぜこんなにタイムリーなのかというと、私に先見の明があるからではなく、日本社会の「改革」がカタツムリのようなスピードでしか進まないためです。

とはいえ、「改革」の方向性ははっきりしています。それは終身雇用・年功序列の日本的雇用を、世界標準(グローバルスタンダード)である「同一労働同一賃金」の雇用制度に変えていくことです。これまで保守派(および一部のリベラルな知識人)は「日本的雇用こそが日本人(男性だけですが)を幸福にした」と主張して、「雇用破壊」のTPPに頑強に反対してきましたが、“真正保守”であるはずの安倍政権は「雇用破壊」に突き進んでいます。

なぜこのようなことになるかというと、ほかに政策の選択肢がないからです。終身雇用も年功序列もとうに賞味期限が切れており、欧米先進国では定年を廃止した「生涯現役」や、会社(組織)に所属しないフリーエージェントの働き方が広がっています。労働者を「正社員」と「非正規」という身分に分け、同じ仕事をしているのに給与や待遇がちがうというのは国際的には明らかな「差別」で、もはや「日本は特別だ」との言い訳は通用しなくなりました。

労働者を仕事の内容によって「スペシャリスト(高度プロフェッショナル)」と「バックオフィス」に分けるのは、日本以外ではどの国も当たり前に採用している世界標準の働き方です。その理由は「グローバリストの陰謀」ではなく、労働者を身分や性別、国籍、人種、宗教などで差別しない平等な雇用制度をつくろうとすると、仕事の内容で分ける以外にないからです。

日本でも、高い能力をもつビジネスパーソンは「高度プロフェッショナル制度」に諸手を挙げて賛成するでしょう。成果に応じて、社長をも上回る高い報酬を得られるのですから。

では誰が反対しているかというと、プロフェッショナルなものをもたない大多数の「サラリーマン」です。このひとたちはこれまで「正社員」という身分によって「非正規」を差別してきましたが、「バックオフィス」の仕事にくくられてしまえば、バカにしてきた「非正規」と同じになってしまいます。しかしこれは、逆にいえば「非正規」が「正社員」と同じになるということですから、理不尽な扱いに苦しんできたパートや契約社員にとってはまったく悪い話ではありません。それにもかかわらず日本では、「人権派」を名乗るひとたちが重層的な差別の温床である日本的雇用を死守しようと大騒ぎしているのです。

しかしグローバル化が進み外国人労働者が増えるなかで、日本だけが差別的な雇用制度をつづけることなどできるはずはありません(日本企業では「現地採用」と「本社採用」でまったく待遇がちがいますが、これは外国人差別以外のなにものでもありません)。すなわち、政権が保守であろうがリベラルであろうが、日本的雇用を「破壊」する以外にないのです。

こうして紆余曲折がありながらも、カタツムリのスピードで「改革」が進んでいきます。その結果、週刊誌に書いたコラムが単行本になり、それが文庫化された頃にぴったりタイミングが合うのです。

日本的雇用が耐用年数を大きく超えて時代から取り残されたのと同じように、「日本的リベラル」もグローバルスタンダードのリベラリズムから脱落してしまいました。それは「戦後民主主義」が、アメリカに憧れながら反発し、ソ連や中国共産党、北朝鮮を理想化してきたからで、冷戦の終焉によって日本にしかない異形のイデオロギーは拠って立つ場所を失ってしまいました。それにもかかわらず自らの無謬性にこだわり、アカデミズムでの既得権にしがみついた無残な姿が現在の「日本的リベラル」ということでしょう。

本書で述べた「リベラル」批判は現在も変わっていませんが、しかしその後、ネットに蔓延する朝日新聞や旧民主党・民進党の政治家へのバッシングには別の要因があるのではないかと思うようになりました。

たんに相手の考え方が間違っているのなら、それを指摘すればいいだけですから、「しょーもないなあ」と呆れることはあってもそれ以上の強い感情はもたないでしょう。ところがSNSなどでは、気に入らない相手に「反日」「売国」などのレッテルを貼り、「在日」認定するという異様なバッシングが横行しています。この底知れない憎悪はいったいどこから来るのでしょうか。

異なる政治イデオロギーが憎悪の応酬を招くのは、日本だけに見られる現象ではありません。「親安倍」と「反安倍」が対立するように、アメリカでは「親トランプ」と「反トランプ」が憎悪をぶつけあっており、ヨーロッパでは「極右」がムスリムの移民と、彼らの人権を擁護するリベラルをはげしく攻撃しています。

私はこれを、グローバル世界を覆う「リベラル化」の大潮流と、それへのバックラッシュとしての「アイデンティティ主義」の対立だと考えています。

世界が「リベラル化」しているなどというと嘲笑(わら)われるかもしれませんが、ハリウッドから始まった「#Me Too(私も)」運動にしても、財務省事務次官の女性記者へのセクハラにしても、かつてなら「枕営業」や「言葉あそび」あるいは「ただのナンパ」として話題にもならなかったでしょう。しかし今では、強引に口説いたり身体に触れたりすることはセクハラという不道徳な行為で、女性のかんぜんな合意を得ない性行為は犯罪とみなされて刑事罰を科せられるようになりました。

女性の権利だけでなく、人種差別にしても、子どもの人権にしても、あるいは動物の権利まで、北のヨーロッパ(北欧、ベネルクス三国)やアメリカの東部(ニューヨーク、ボストン)・西海岸(カリフォルニア)を起点に、あらゆる領域で「権利革命」とでもいうべき価値観の大きな変化が起きているのです(スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』青土社)。

この世界的なリベラル化はグローバル化と知識社会化をともなって進行し、その背景にはコンピュータなどテクノロジーの急速な発達があります。しかし残念なことに、すべてのひとが高度化した知識社会に適応できるわけではありません。こうしてアメリカでは、知識社会から脱落したひとたちが「ラストベルト(錆びついた地帯)」と呼ばれる荒廃した製造業の街に吹き溜まっていきます。ニューヨーク・タイムズのコラムニスト、デビッド・ブルックスは、トランプを熱烈に支持し、東部や西海岸の裕福なリベラル(およびそれを代表するヒラリー・クリントン)をこころの底から憎む彼らを突き動かすのは人種差別(レイシズム)ではなく「白人アイデンティティ主義」だと述べました。

「白人アイデンティティ主義者」とは、「白人であるということに以外に誇るもののない」ひとたちです。

驚くべきことに、先進国でも新興国でも世界的に死亡率が下がっているにもかかわらず、アメリカの低学歴(高卒以下)の白人だけは死亡率が上昇しています。「見捨てられた白人」たちの死因はドラッグ、アルコール、自殺で、「絶望死」と呼ばれています。

アイデンティティは「社会的な私」の核心にあるもので、「俺たち」と「奴ら」を分ける指標になります。そのいちばんの特徴はなんの努力もなしに手に入り、相手がそれを名乗るのが困難なことです。人種がもっとも強力なアイデンティティになるのは、他者(黒人やヒスパニック、アジア系)が白人になることが原理的に不可能だからです。ミソジニー(女性や女らしさへの嫌悪)を特徴とする「男性アイデンティティ主義」も同様で、性転換しなければ同じアイデンティティをもつことはできません。

人種や民族、性以外では宗教もアイデンティティになります。IS(イスラム国)のテロリストはイスラーム原理主義のカルトですが、キリスト教原理主義、ユダヤ教原理主義、ヒンドゥー原理主義なども同じ「宗教アイデンティティ主義」です。

当然のことながら、国家(ナショナリズム)もアイデンティティと強く結びつきます。「ネトウヨ」は典型的な「日本人アイデンティティ主義者」で、「日本人であること以外に誇るもののない」ひとたちです。だからこそ彼らは、自分と異なるイデオロギーをもつ他者を「反日」「売国」と罵り、「在日」すなわち「日本人ではないもの」と認定するのです。

一般に「右傾化」とされているのは「反知性主義、グローバリズム批判、保守化」のことですが、これは「知識社会化、グローバル化、リベラル化」へのバックラッシュです。アイデンティティ主義者が強いルサンチマン(憎悪)を抱くのは、自分たちが知識社会から脱落し、疎外されていると感じるからでしょう。

しかしなぜ、社会は「保守」と「リベラル」に分かれるのでしょうか?

じつはここには、遺伝的な影響があると私は考えています。ひとは(ある程度までは)生得的に、「保守的」あるいは「リベラル」な性向をもって生まれてきます。そして知識社会化した現代社会では、「リベラル」に生まれた方が社会的・経済的に成功しやすいのです……。

「そんなバカな」と思われるでしょうが、いまではさまざまな研究でこの不穏な仮説を支持する証拠(エビデンス)が積み上がっています。――これについては近刊の『朝日ぎらい』(朝日新書)で詳説したので、ここではこれ以上述べません。

『朝日ぎらい』では、「リベラル化」と「アイデンティティ主義」という視点から、日本における「リベラル」の象徴である朝日新聞がなぜこれほど嫌われるのかを分析しています。本書の続編にあたるので、合わせて読んでいただければ幸いです。

2018年6月 橘 玲

定年制廃止のために金銭解雇の合法化を 週刊プレイボーイ連載(344)


難産の末に「高度プロフェッショナル制度(高プロ)」が成立しました。野党は「働かせ法案」「過労死法案」と批判していますが、「年収1075万円以上の専門職が対象」とされたためか、大半のひとが「自分には関係ない」と思い、反対運動はいまひとつ盛り上がりに欠けたようです。

しかし働き方改革はこれで終わりではなく、国民的な議論(大騒ぎ)を引き起こすことが確実な、さらに大きなイベントが待ちかまえています。それが「金銭解雇の合法化」です。

議論の前提として、日本は世界にさきがけて超高齢社会に突入し、少子化による人口減で人手不足がますます深刻化している現状を確認しておきましょう。この大問題に対処しようとすると、「右」でも「左」でもどんな政権でも、「高齢者にいつまでも働いてもらえる社会」にする以外ありません。こうして安倍政権は「一億総活躍」を掲げ、公務員の定年の65歳への引き上げや、「70歳定年制」の導入が検討されるようになりました。その先にあるのは「定年制廃止」で、アメリカやイギリスがすでに導入し、スペインなどヨーロッパの国がつづいていますから、早晩、これが世界の主流になるのはまちがいないでしょう。

リベラリズムの根本原理は自己決定権です。どこで(誰の子どもとして)生まれるかで人生が左右されてはならず、結婚や職業選択だけでなく、いまでは死ぬ時期や死に方まで個人の自由な選択に任せるべきだとされるようになりました。そんな社会で、本人の意思にかかわらず強制的に雇用契約を解除する定年制が受け入れられなくなるのは当然です。

ところが日本的雇用は年功序列なので、定年制廃止でなく70歳定年制でも人事制度が大混乱に陥ります。しかしそれより問題なのは終身雇用で、現在のように「いちど正社員を雇ったら解雇できない」のでは、会社は高齢者の巣窟となって壊死してしまうでしょう。「定年制のないリベラルな社会」を実現しようと思ったら、会社が合理的な経営判断と公正な手続きで従業員を解雇できる制度がどうしても必要なのです。これが「金銭解雇の合法化」です。

日本人は会社を「イエ」とし、生活の面倒をみてもらうかわりに滅私奉公するのを当然としてきましたが、こんな前近代的な働き方をしている国は日本しかなく、欧米諸国はどこも解雇のルールを法で定めています。

「日本にも労働審判がある」というかもしれませんが、明確なルールがないまま会社と対立すれば、弱い立場の労働者が不利になるのは否めません。「終身雇用で守られているのは大企業の正社員だけで、非正規はもちろん、中小企業も実質的に解雇自由でなんの補償もない」との指摘もあります。解雇の際の金銭補償が法で定められれば、多くの「雇用弱者」が救われるでしょう。

「合理的理由のない待遇格差は差別」というのが世界の常識で、日本の裁判所もようやく違法判決を出すようになりました。「働き方」は労働者の人生に大きく影響しますから、正社員だけを過剰に優遇するのではなく、すべての働くひとに公正な解雇のルールをつくらなければならないのです。

参考:大内伸哉、川口大司編著『解雇規制を問い直す― 金銭解決の制度設計』(有斐閣)

『週刊プレイボーイ』2018年7月9日発売号 禁・無断転載

女児虐待死事件でメディアがぜったいいわないこと 週刊プレイボーイ連載(343)


目黒区で5歳の女児が虐待死した事件では、「きょうよりか もっともっと あしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして」などと書かれたノートが発見され、日本じゅうが大きな衝撃に包まれました。このような残酷な事件が起きないようにするために、いったいなにができるでしょうか。

この事件について大量の報道があふれていますが、じつは意図的に触れていないことが2つあります。

女児を虐待したのは義父で、母親とのあいだには1歳の実子がいました。じつはこれは、虐待が起こりやすいハイリスクな家族構成です。

父親は自分の子どもをかわいがり、血のつながらない連れ子を疎ましく思います。母親は自分の子どもを守ろうとしますが、それ以上に新しい夫に見捨てられることを恐れ、夫に同調して子どもを責めるようになるのです。なぜなら進化論的には、ヒトは自分の遺伝子をもっとも効率的に残すよう“プログラム”されているから……。

これが進化心理学の標準的な説明で、こうした主張を不愉快に思うひとは多いでしょうが、アメリカやカナダの研究では、両親ともに実親だった場合に比べ、一方が義理の親だったケースでは虐待数で10倍程度、幼い子どもが殺される危険性は数百倍であることがわかっています。

もちろん連れ子のいるほとんどの家庭は虐待とは無縁で、偏見につながらないような配慮は大事ですが、残念なことに、「進化の圧力」に抗する理性をもたない親が一定数いることはまちがいありません。児童相談所がこのリスク要因を正しく把握していれば、もっと強い対応もできたのではないでしょうか。

メディアが触れないもうひとつの事実は、この女児にはどこかに実の父親がいることです。ここでも誤解のないようにいっておくと、「父親を探し出して責任を追及しろ」といいたいわけではありません。

日本では、夫婦が離婚するとどちらかが親権をもつことになります。これが「単独親権」ですが、考えてみれば、離婚によって親子関係までなくなるわけではありませんから、これには合理的な理由がありません。そのため欧米では、夫婦関係の有無にかかわらず両親が親権をもつ「共同親権」が主流になっています。

共同親権では、子どもが母親と暮らしていても、別れた父親に子どもと面会する権利が保障されると同時に、養育費を支払う義務が課せられます。ところが単独親権の日本では、ほとんどのケースで父親が親権を失うので、義務感までなくなって、2割弱しか養育費を払わないという異常なことになっています。

虐待への対処でむずかしいのは、公権力はプライベートな空間にむやみに介入できないことです。子どもが家で泣いていたら近所のひとに通報され、いきなり警察や児相がやってくるような社会では、誰も子育てしたいとは思わないでしょう。

しかし実の父親なら、面会を通じて子どもの状態を確認できるし、子育てにも介入できます。子どもが危険にさらされていると判断すれば、保護したうえで公的機関に訴えることも可能でしょう。

今回のような悲劇をなくそうとするのなら、いたずらに行政をバッシングするのではなく、「子どものことを真剣に考えるのは親である」という原点に立ち返る必要があるのです。

参考:マーティン・デイリー、マーゴ ウィルソン『人が人を殺すとき―進化でその謎をとく』

『週刊プレイボーイ』2018年7月2日発売号 禁・無断転載