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日本では所得格差は拡大していないが、それはよい知らせではない(週刊プレイボーイ連載678)
「グローバル資本主義」や「ネオリベの陰謀」によって、経済格差がとめどもなく拡大しているといわれます。しかし最近になって、「これはアメリカのような社会にはあてはまるものの、日本では格差の拡大は見られない」というデータが増えてきました。
ジニ係数は所得や資産の分配の平等さ表わす指標で、数値が0だと完全平等(すべてのひとが所得・資産を平等に分け合う)で、1だと完全不平等(1人がすべての所得・資産を独占する)になり、0.5を超えると「格差が大きい」とされます。
厚生労働省が3年に1回行なっている「所得再分配調査報告書」によると、所得のジニ係数は徐々に大きくなっているものの、それでも2011年の0.37から23年に0.38に上がっただけです。
20代のときはみんな貧乏でも、年齢とともに才能・努力・運などによって所得の差は開いていき、社会全体が高齢化すると自然にジニ係数が上がります。そこで高齢化の効果を調整すると、ジニ係数はほとんど変わっていないこともわかりました。
それ以外にも、同様の結果を示す調査があります。
国税庁の「民間給与実態統計調査」からの推計では、給与所得の過去30年間の推移は、中央値が約400万円、上位10%が800万円、上位1%が1600万円でほとんど動きがありません。
さらに税務データと世帯調査を組み合わせた純国民所得の国際比較でも、上位1%層の所得シェアで、アメリカは19%、韓国が16%と高水準なのに対して、日本は8%で先進諸国でもっとも低くなっています。
このように日本は、格差問題で政治や社会が動揺する欧米などとくらべて、格差が少ない平等な社会といえます。しかしこれを、手放しで喜んでいいのでしょうか。
インフレにともなって賃上げが進んでいるとされますが、厚労省の「所得再分配調査報告書」では、世帯単位で見た(再分配前の)所得が2年間で423.4万円から384.8万円と9.1%(38万6000円)も減っています。これは高齢化にともなって、退職して年金のみに依存する世帯が増えているからでしょう。その結果、年金以外の所得がほとんどない(年間50万円未満)世帯が全体の3割を占め、半数の世帯が(再分配前の)所得250万円以下というのが日本社会の実態なのです。
給与所得が30年間ほとんど変わらないということは、収入がまったく増えていないということです。そればかりかこの間、給与の中央値は9%も下落しています。それでも実質GDPが年率約0.5%増えたのは、共働きによって家計の所得を補ったからです。
上位1%層の所得シェアが低いということは、逆にいえば、優秀な人材が自らの能力を発揮してお金を稼ぐことができない社会だということでもあります。
これをまとめると、日本は「失われた30年」のあいだ、「出る杭」を打ちながら「みんなで平等に貧しくなった」になります。格差が拡大しても活気のある社会とどちらがいいのか、そろそろ真剣に考えるべきときがきたようです。
楡井誠「分配の起点は経営者の競争」日本経済新聞2026年3月23日
森口千晶「機会の平等 政策の軸足に」日本経済新聞2026年3月24日
『週刊プレイボーイ』2026年4月6日発売号 禁・無断転載
シチリア島からマルタ島への旅(2012年6月)
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
2012年6月にシチリア島とマルタ島を旅したときの記録で、同年10月公開の記事です。(一部改変)

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最初は、誰かが歌をうたっているのかと思った。朝の9時頃、パレルモのカフェでコーヒーを飲んでいた時のことだ。
パレルモはシチリア王国の古都で、旧市街の中心はクアットロ・カンティ(四つ辻)と呼ばれている。17世紀に造営された小さな広場だが、四つ辻(十字路)に面した角を丸く削った優雅な建物に囲まれ、ヴィム・ベンダースの映画『パレルモ・シューティング』の舞台ともなった。その周辺には大聖堂(カテドラーレ)や教会などの観光名所が集まっているから、ガイドブックでも真っ先に紹介されている。
カフェは、そのクアットロ・カンティから50メートルも離れていない大通りに面していた。通りの向かい側にバス停があり、そこで60歳前後の上品な身なりの女性がなにごとか叫んでいたのだ。
やがてカフェの店員が通りに出ると、肩を抱きかかえるようにして女性を店に連れてきた。彼女は大粒の涙をこぼしながら、首のあたりに手をあててカフェの店員や客にしきりになにかを訴えている。店員が水を飲ませ、慰めるとすこし落ち着くが、またすぐに泣きはじめる。
そのとき、バス停に立っていた女性の前に若い男の乗ったスクーターが止まったことを思い出した。そのときはまったく気がつかなかったが、スクーターの男は、出勤のためにバスを待つ彼女が首飾りをしているのを見て、それをひったくったのだ。
理不尽な被害にあった女性は、恐怖と怒りで身体を震わせ、泣きながらしばらく神の名を唱えていたけれど、みんなに慰められて落ち着きを取り戻すと、着替えをするために自宅に戻っていった。警察が呼ばれることもなく、女性が店を出ると、カフェの店員や客はなにごともなかったように談笑を始めた。 続きを読む →
自衛隊は「軍隊」ではないからペルシア湾に行けない(週刊プレイボーイ連載677)
アメリカとイスラエルがイランを攻撃し、その報復で石油輸送の要衝であるホルムズ海峡が封鎖されたことで、トランプは日本・韓国・中国に対し、「(米国が)ホルムズ海峡をずっと守ってきた」「我々に感謝するだけではなく、助けに来るべきだ」などと述べました。その直後に行なわれた日米首脳会談では、トランプが自衛隊派遣の確約を迫るのではないかと懸念されましたが、「日米同盟をより強固なものにしていく」と合意しただけで、具体的な要請がなかったことで政府内に安堵が広がりました。
イラン情勢が集団的自衛権を行使できる「存立危機事態」や、米軍の後方支援活動を行なう「重要影響事態」と認定されれば、自衛隊は米軍とともにイランと交戦することになります。こうした事態は現実には考えにくいものの、ここではその前提として「自衛隊は軍隊として活動できるのか」を考えてみたいと思います。
周知のように日本国憲法は9条で戦争を放棄し、「陸海空軍その他の戦略は、これを保持しない」としています。そのため自衛隊は、国内法では「行政組織」のひとつで、自衛隊員は「軍人」ではなく「国家公務員」、保有している戦車や戦闘機、艦船は「武器」ではなく「装備」とされます。
世界では、軍隊は「軍法」という独立した法体系の下に置かれ、戦場での命令不服従や敵前逃亡など軍規違反が起きた場合、軍人が裁判官・検察官になる軍法会議によって裁かれます。ところが自衛隊は軍ではないので軍法(軍刑法)はなく、刑法や国家公務員法を適用するしかありません(自衛隊法は自衛隊という行政組織を管理するための法律です)。
話がさらに複雑になるのは、戦闘行為で民間人が巻き添えになって被害を受けた場合です。自衛隊の海外での活動でこのようなことが起きたら、警察が現地まで行って捜査し、検察が自衛官を刑法199条の殺人罪などで起訴して、地裁・高裁・最高裁が判断することになります。財産などの損害を被った場合は、被害者は民法にのっとって裁判を起こすしかありません。
こうした欠陥がこれまで問題にならなかったのは、自衛隊は災害救助のための組織で、戦闘をすることが想定されていなかったからです。ところが「台湾有事」をはじめとして、自衛隊に「軍隊」としての貢献が求められるようになって、「軍法のない軍隊」問題を放置できなくなってきました。野党も含め、国会議員の大半が憲法改正に賛成しているのは、この危機感がようやく共有されるようになったからでしょう。
じつはこのことは、保守派だけでなくリベラルなメディアも理解しています。しかし、軍法を制定するには自衛隊を「軍」だと認めなくてはならず、そうなると9条を改正せざるを得なくなるため、見て見ぬふりをしてきたのです。
すこし前のことですが、リベラルな新聞社の記者から、「若手を中心に社内では憲法改正派がほとんどなのだが、団塊の世代の読者の反発が怖くて紙面に書けない」という話を聞きました。リベラルはつねに「自由な議論こそが民主主義の基礎だ」と主張してきましたが、こうした「事なかれ主義」が軍隊について議論することを封殺し、いまやその矛盾が露呈しているのです。
『週刊プレイボーイ』2026年3月30日発売号 禁・無断転載