”幸せ”についてスルーされ続けてきた「ある真実」

進化心理学者ソ・ウングクさんの『幸福についての世界でいちばん冷酷なお知らせ  進化心理学が教えてくれる“きれいごと抜き”の人生戦略』(東洋経済新報社)に書かせていただいた解説「“幸せ”についてスルーされ続けてきた「ある真実」」を出版社の許可を得てアップします。

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私は10年前に『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)で、「ひとは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない」と書いた。

ソ・ウングクさんはほぼ同じ時期に、「残念ながら、人は〝幸福〞のために生きていない」という内容の、本書の旧版を出した。「幸せは、生存するために必要な道具」なのだという。

2人の主張が似ているのは偶然ではない。どちらも進化心理学を土台に、幸福について考えているからだ。

ヒトは二足歩行だけでなく、体毛を失ったことや遅い思春期、長い寿命など、近縁種である霊長類や類人猿と比べても、かなり変わった解剖学的・生理学的特徴を持っている。それと同様に、脳という臓器もヒトが進化する過程で、緊密な社会集団の強い淘汰の圧力を受けながら特殊な仕様に「設計」されてきた。

だとしたら、喜びや悲しみ、怒りや恐怖のような感情も、生き延びてより多くの子孫を残すように進化してきたに違いない。

幸せもそのための道具の1つだと考えるのが、進化心理学だ。

■欧米の学会を揺るがし、日本で無視された大論争

1953年にワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発見し、遺伝子の視点から生き物の生態を解明するという生物学のパラダイム転換が起きた。

1960年代にウィリアム・ハミルトンが、アリやハチのような社会性昆虫に見られる利他性は、「種の保存」のために己を犠牲にしているのではなく、自分の遺伝子を後世に残すために血縁者を支援する「合理的な」行動であることを数学的に証明し、大きな衝撃を与えた。

70年代になるとロバート・トリヴァースが、鳥類などで、血縁関係がなくても「将来のお返し」を前提とした協力関係(互恵的利他主義)が成立していることや、オスとメスの性愛戦略の違いを「投資(リスクとリターン)」から説明できることを示した。

1975年にエドワード・ウィルソンが、それまでの知見を総合して昆虫・鳥類・哺乳類など社会的な動物の行動を一貫した論理で説明する大著『社会生物学』を発表した。

だがウィルソンが、その最終章「ヒト――社会生物学から社会学へ」で、ヒトの行動も社会性昆虫などと同じ進化の理論から理解できると述べたことで、科学者や知識人、メディアなどを巻き込む大論争が勃発した。これは「社会生物学論争」と呼ばれる。

当時の欧米社会では、ナチスによるユダヤ人絶滅を正当化した優生学への反省から、「生き物の生態を遺伝や進化で説明するのは問題ないが、それを人間に適応してはならない」という不文律が生まれた。

政治にはまったく興味がなく、昆虫少年がそのまま研究者になったようなウィルソンは、無自覚なまま生物学の新しい常識を書いたことで地雷を踏み「キャンセル」されたのだ――ウィルソンに「レイシスト(人種差別主義者)」のレッテルを貼って糾弾するグループを主導したのは、日本でも人気の高いスティーヴン・ジェイ・グールドら左派の科学者たちだった。

だが翌76年に、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが“ The Selfish Gene(利己的な遺伝子)”を発表し、進化生物学の数理的な理論を、「すべての生き物は、遺伝子が自らを複製して後世に残すための乗り物(ヴィークル)にすぎない」という卓抜な比喩で紹介した。

この本が世界的なベストセラーになると、「ヒトも多かれ少なかれ、利己的な遺伝子の乗り物ではないのか」という理解が少しずつ広がっていった。

この社会生物学論争は欧米の科学界だけでなく社会をも大きく揺るがしたが、奇妙なことに日本のアカデミズムからは完全に無視された。

ドーキンスの著作も1980年に『生物=生存機械論』(紀伊國屋書店)という邦題で刊行されたがほとんど話題にならず、1991年に『利己的な遺伝子』(同)と改題されて初めて広く知られるようになった。

このように日本の進化生物学や進化心理学の受容は欧米から数十年遅れており、一部の専門家を除けば、「人間の行動や感情は進化の産物である」という主張は〝トンデモ科学〞の一種か、さもなければ「差別」だと決めつけられていた。

本書を読むと、こうした事情は韓国でも同じようなものだったらしい。

■アリストテレスの欺瞞

ソさんは本書で、「幸せのもっとも大きな決定要因は『遺伝』だ」と述べたうえで、ダーウィンとアリストテレスを比較しながら、軽妙な筆致で「不都合な真実」を次々と暴いていく。

アリストテレスは幸福(ユーダイモニア)こそが人間にとっての「最高の善」であり、究極の目的だと論じ、これが欧米の幸福論の基礎になった。

それに対してダーウィンは、人間もしょせん動物の一種だとして、幸福を生物学的に解明しようとする。

本書ではダーウィン説によりながらアリストテレス的な幸福論を批判していくのだが、その過程がとてもわかりやすい文章で、なおかつスリリングに書かれているので、私が屋上屋を架すような解説をする必要はないだろう。そこでここでは、補足として2点、書いてみたい。

ソさんがくり返し指摘するように、幸福研究では「外向的だと幸福度が高く、内向的だと幸福度が低い」という一貫した結果が出ている。

より正確には、外向的だと喜びや興奮、没入感のようなポジティブ感情が、不快や苦痛をともなうネガティブ感情よりも多くなる。

幸福を「ポジティブ感情 -(マイナス) ネガティブ感情」と定義するなら、外向的な性格が幸福度に結びつくのは間違いない。

だが私は、自分が内向的だということもあって、この定義には疑問を感じていた。

1つは、幸福研究の多くがアンケート形式で、客観的に幸福かどうかわからないこと。

外向的だと「自分は幸福だ」と報告しやすく、内向的だと自分の幸福をあまり報告しないのかもしれない(これは「自己報告バイアス」と呼ばれる)。

だがより重要なのは、外向的/内向的と覚醒度の関係がわかってきたことだ。

■世の中の役に立たないアドバイス

近年の研究によると、ひとにはそれぞれ最適な覚醒度がある。

外向的なひとはデフォルトの覚醒度がそれよりも低いので、無意識に覚醒度を上げようとする。たくさんのひとが集まる華やかなパーティ、レーザービームと大音響のフェスやクラブ、危険なスポーツやギャンブル、政治家や芸能人などの目立つ職業を好むのはそのためだ。

それに対して内向的だと、デフォルトの覚醒度が最適な覚醒度よりも高いため、無意識にそれを下げようとする。こうして、静かな図書館やカフェで本を読んだり、親しい友人と長く語らったり、1人の時間を好んだりするようになる。

ポジティブ感情を「覚醒度を引き上げようとするときに生じる高揚感」とすれば、外向的なほうが幸福度が高くなるのは当然だ。

これは一種のトートロジー(同義語反復)で、「穏やかな安心感」のような別の定義を使えば、内向的なほうが幸福度が高くなるかもしれない。

近年の幸福研究では、外向的/内向的よりも、神経症傾向と幸福度の関係が注目されている。

神経症傾向が高いと不安感が強く、ネガティブ感情を持ちやすく、うつ病の予測因子になる。うつのひとの幸福度は明らかに低いだろうから、こちらのほうがより直接的だ。

本書でも強調されているように、外向的/内向的や神経症傾向のような性格はほぼ半分が遺伝の影響で、残りの半分は環境の影響ではあるものの、それには無数の要因があり、個人がコントロールすることはできない。幸福度は、自分の意志や努力とは(ほとんど)関係ないところで決まっているのだ。

それにもかかわらず、世の中には「努力によって幸福になれる(はずだ)」というアドバイスがあふれている。

ソさんは「そもそも幸せは“思考”ではないのに、考え方を変えようとしても効果はない」と述べているが、これは至言だろう。

わたしたちはみな、持って生まれた幸福度の中で生きていくしかないのだ。

■私たちが背負う運命

日本や韓国は1人当たりGDPでメキシコ、コロンビア、ブラジルなど中南米の国よりはるかに豊かだが、さまざまな国際調査で一貫して幸福度が低い。

温暖で湿度の高い東アジアは稲作に適しており、多くの農民が村に集住する集団主義の文化が発達した。協調性が重視されるムラ社会では、他者の視線を気にし、恥に敏感で、つねに空気を読むようになった。これが幸福を感じにくくさせているという説には説得力がある。

それに対して麦作や牧畜では人口密度が低く、個人主義の文化が育った。世界幸福度ランキング(2026年)ではフィンランド、アイスランド、デンマークなど北欧諸国が上位に並んでいるが、これは所得水準が高いというよりも、個人主義の文化が理由だとされる。

北欧は見ず知らずの他人でも信頼する「高信頼社会」で、日本や韓国のような東アジアは、血縁やムラ(自分の会社)の仲間しか信用せず、外部の人間を警戒する「低信頼社会」だとされる。これもまた、幸福度に影響している可能性がある。

ここまでは欧米と東アジアの文化的な違いだが、近年は文化が遺伝に影響を与える「遺伝と文化の共進化」が注目されている。

稲作文化のムラ社会では、内向的で神経症傾向の高い性格のほうが集団主義によくなじんだとするならば、そのような遺伝的傾向を持つ者が選択され、集団内に広がっていったかもしれない。

だとすれば、そもそも「日本人(あるいは韓国人)」だというだけで、幸福になりにくい運命を背負っていることになる。だがこれは、(もし事実だとしても)落胆するようなことだろうか。

幸福になれるかどうかが遺伝的に決まっているのなら、幸福になろうと努力することにさしたる意味はない。

遺伝的に幸福になることが難しい日本人や韓国人が幸福を目標にすると、たいていは失敗して残念な結果になる。だったら、幸福を「最高善」にしなければいいのだ。

その場合は、「私は何のために生きるのか」という別の答えが必要になるだろう。

これについては、個人的なテーマとしてこれからも考えていきたい。

禁・無断転載

人口ボーナスの終わり

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2013年3月公開の記事です。(一部改変)

kylauf/shutterstock

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経済成長が生産年齢人口に大きく影響されるという理論は、ベストセラーとなった藻谷浩介氏の『デフレの正体 経済は「人口の波」で動く』(角川oneテーマ21)で広く知られることになった。この本については「インフレやデフレは貨幣現象で人口動態とは無関係」との批判もなされたが、そうしたマクロ経済学的な議論を脇に置いておけば、藻谷氏の主張は1990年代後半から注目されるようになった(人口と経済の相互関係を研究する)人口経済学とほぼ同じだ。

アジアの人口変化と経済発展を専門とする大泉啓一郎氏は、『老いてゆくアジア 繁栄の構図が変わるとき』(中公新書)などで、1990年代以降の「東アジアの奇跡」を人口ボーナスで説明している。

日本の高度経済成長は典型的な人口ボーナス

人口ボーナスというのは、人口がとめどもなく増えていく人口爆発のことではない。

かつての日本を含め、低開発国はどこも多産多死で、10人ちかい兄弟姉妹がいることも珍しくなかった。平均寿命も短いから、末子が成人する前に両親は死んでしまい、長兄(長姉)が親代わりに弟妹を育てることが当たり前だった。

その後、医療の普及や衛生状態の改善で乳幼児の死亡率が下がると、多産多死から多産少死になって若年人口が大きく増える。だがこうした多産少死が定着すれば人口は膨張するから、政府は家族計画や一人っ子政策で子どもの数を減らそうとする。

また産業構造が農業から工業・サービス業に変わり、家計所得が増えて自由な生活が可能になるとともに、子育ての教育費負担が重くなると、成人した若者たちは両親の世代ほど多くの子どもを持とうとはしなくなるだろう。このように、多産少死は少産少死へと移行していく。

人口ボーナスは多産少死から少産少死へと人口動態が変化する時期のことで、生産年齢人口(15歳以上65歳未満)の増加として表わされる。それがなぜ景気と関係するのか、日本のベビーブーマー(団塊の世代)を例にとって考えてみよう。

第二次世界大戦後に生まれた団塊の世代は、二重の意味で人口の負荷から解放されていた。

親の世代の多くは戦争で死に、平均寿命も長くはなかったから、高齢者の生活を支えるコストは無視できるほど小さかった。それと同時に出生率が劇的に下がったから、子どもを扶養する費用は、(1人あたりの子育てコストは増えたとしても)社会全体では大幅に軽減された。

このような二重の幸運に恵まれた団塊の世代が30代から40代の社会の中核になると、高齢者世代と子ども世代の扶養コストが低い分だけ可処分所得が増え、それを消費に振り向けたり、貯蓄を頭金に住宅ローンを組んでマイホームを購入したりできるようになった。

一国の人口構成上、負担の少ない世代が社会経済の中心になることで、消費が増大して好景気になり、住宅需要で地価が上昇する。この好循環によって、1960年代から70年代にかけての高度経済成長は実現されたのだ。 続きを読む →

AIを殺人教唆で逮捕できるか?(週刊プレイボーイ連載693)

今年2月、カナダ西部のブリティッシュコロンビア州の中高一貫校で、18歳の元生徒が校内で銃を乱射し、生徒5人と女性教諭1人が死亡し、数十人が負傷する事件が起きました。警察が学校に突入すると、容疑者は自らの銃で自殺しており、その後、自宅で容疑者の母親と11歳の義弟が死亡しているのが見つかりました。

カナダの警察によれば、容疑者は生物学的男性に生まれ、12歳の頃に女性への移行を始めたトランス女性で、14歳で学校を中退したあと、メンタルヘルスに関する通報を受けて複数回、警察が出動したことが記録されていました。さらに、精神鑑定のために保護・拘束されたり、精神科施設で治療を受けていたことも判明しました。

その後、事件の遺族が、容疑者がGhat GPTに犯行の相談をしたにもかかわらず通報しなかったとして、開発元のオープンAIを訴えました。訴状によると、事件の8カ月ほど前に容疑者はChat GPTと銃による大量殺人についてやり取りし、これがオープンAIの自動監視システムに検知されました。それを受けて社内の専門チームが、現実の暴力の前兆として警察に通報すべきだと提案したものの、経営陣は「他者への危害についての差し迫ったかつ信頼できる計画は確認できない」として、アカウント停止にとどめました(その後、容疑者は別のアカウントを作成しました)。

AIが殺人や自殺の計画に関与・教唆したとして、開発企業が刑事捜査の対象になったり、遺族から訴えられる同様の事例が相次いでいます。

2025年4月のフロリダ州立大学での銃撃事件では、キャンパス内で学生が発砲し2名が死亡、6名が負傷しました。容疑者は事件当日、ChatGPTに「銃撃事件が起きたら社会はどう反応するか」「学生会館が混雑する時間帯はいつか」などと質問していました。

26年4月には、南フロリダ大学で大学院生2名が殺害されました。 容疑者は犯行の数日前からChatGPTに「遺体をゴミ袋に入れたらどうなるか」「遺体の処理方法」「銃声の聞こえ方」「身元を隠す方法」などを執拗に質問していたことが捜査で明らかになっています。

また、カリフォルニア州で自殺願望を抱えていた16歳の少年が自殺した事件では、ChatGPTがその手段について詳細に助言し、遺書の草案まで作成していたとして25年8月に遺族が提訴しています。

容疑者がAIに犯行を相談した時点で開発企業が警察に通報していれば、悲惨な事件は起こらなかったと遺族が考えるのは当然です。しかしそうなると、どのようなケースなら通報するのかの基準をつくらなければなりません。

映画のシナリオや小説の執筆のためにAIを使っていたら、いきなり自宅に警察が乗り込んできて逮捕される、などということは誰も望まないでしょう。しかし、現実の犯罪の準備と、フィクションの犯罪とをどのように見分ければいいのでしょうか。

AI開発企業は、通報しなければ殺人教唆や自殺ほう助で刑事責任を問われ、通報すれば「監視社会」の批判を浴びます。本音では「だったら法律で決めてくれ」と思っているでしょうが、政治家も行政もこの泥沼に足を踏み入れる気はないので、けっきょくは事件のたびに袋叩きにされる運命を受け入れるしかないのです。

「AIに犯行相談も通報せず 学校銃乱射事件で遺族がオープンAI提訴」朝日新聞2026年4月30日

『週刊プレイボーイ』2026年8月17日発売号 禁・無断転載