『鬼畜 青山正明』のインタビューをアップします

10月25日発売の『鬼畜 青山正明』で、ライターの五庵保典さにインタビューしていただきました。表紙とカバー裏に掲載されていますが、せっかくの機会なので、出版社の許可を得てその全文をアップします。

青山正明さんとは編集者時代におつき合いがあり、何冊か本をつくりました。1990年代はじめの出版業界についても語っています。

『突然変異』で知った、青山正明という才能

─橘さんが青山正明さんを知ったのは、どんなきっかけだったのでしょうか。
◉最初は『突然変異』です。私がギャル雑誌をやっていた23、24歳の頃に見て、「すごい才能だな」と思いました。同人誌なのに洗練された誌面作りで、椎名誠に決闘を申し込むみたいなことも仕掛ける、その感じも含めてね。当時のアンダーグラウンドカルチャーの中でも突出していたんじゃないですか。その後も雑誌などで青山さんの文章を見つけたら、読むようになりました。

─実際に会ったのは、特殊旅行雑誌『エキセントリック』(全英出版)の頃ですか。
◉はい。私が別冊宝島(当時、JICC出版局)の編集者で、東京公司の事務所を訪ねたんです。一番町のマンションにあった頃ですね。なぜ会いに行ったのかは、もうはっきり覚えていないんですけど、青山さんから、『エキセントリック』が廃刊になるという話を聞きました。

─その出会いがヒット企画、別冊宝島の『タイ読本』(JICC出版局)につながったんですね。
◉せっかく海外取材をしたのだから、その経験を生かしてタイの裏情報のムックを作りたいと青山さんから提案があって、それが『タイ読本』になりました。そこから仕事のつきあいが始まり、ドラッグを扱った別冊宝島の『気持ちいいクスリ』などにつながっていきました。ただ、青山さんと二人で一冊を最初から最後まで作ったというより、東京公司のチームに仕事を頼む感覚でしたね。

─東京公司は、実際にはどのような集団だったのでしょうか。
◉会社というより、青山さんを中心に面白い人たちが集まった編集チームに近かったですね。青山さんは、編集の実務を黙々と進めるタイプではなかった。面白いことを見つけてアイデアを出す力は圧倒的にある。でも、自分で全部を仕切って、締め切りまで管理するのはあまり得意ではないので、吉永嘉明さんたちが動いて、企画を実際の本にしていく。青山さんが発想の核で、周囲の人たちがそれを形にすることで、東京公司は成り立っていたと思います。

─橘さんが、仕事で直接やり取りすることが多かったのは吉永さんでしたか。
◉そうですね。吉永さんはこちらが「こういう本を作りたい」と言うと、「だったら、いい人を知っていますよ」と連れてくるんです。普通の出版社の人脈では出会えない人を知っていて、しかも、その人が何をできるのかもわかっている。青山さんが面白いテーマや方向を示し、吉永さんが人を探して編集実務につないでいく。東京公司の強さは、その組み合わせにあったんじゃないでしょうか。

吉永嘉明が連れてきた、SPI問題を作る人

─吉永さんの編集能力が発揮された仕事にはどんなものがありましたか。
◉印象深いのは「SPI攻略本」シリーズですね。当時、就職試験でリクルートのSPI(総合適性検査)が広く使われていましたが、それがどのようなものか、一般にはほとんど知られていなかったんです。そこで吉永さんが、受験情報誌をやっていた頃の知り合いで、試験問題の攻略をやらせたら右に出る者はいないという人を連れてきたんです。それが、今では試験問題研究家として有名になった津田秀樹[つだひでき]さんでした。

─問題をそのまま転載するのではなく、本のために新しく作ったのですね。
◉最初はSPIの問題を本に転載したのですが、リクルートから著作権侵害で訴えらえてしまったので(笑)。それは和解ですんだんですけど、同じことはできないので、津田さんに出題の傾向やパターンを分析して、練習できる問題を一から作ってもらいました。それなら解説も付けられるし、問題集としての完成度も上げられるだろうと。
◉こうしてできたのが『適性検査SPI完全攻略本』で、最初の本は著者が別の方になっていますが、問題作成はすべて津田さんです。これがすごく売れたので、それ以降は津田さんの著作としてシリーズ化し、さまざまな試験攻略本を出すようになっていきます。吉永さんは、独自のネットワークで必要な能力を持っている人を探し出すことができた。編集者としてとても重要な才能ですよね。

─実用書のSPI攻略本と、東京公司のサブカルチャー的な仕事は、一見すると離れているようにも見えます。
◉吉永さんにはサブカルチャーの本を作りたいという気はあまりなくて、もっとビジネスライクに、自分の人脈を使って面白そうな企画をやってみる、という感じだったように思います。そもそも就活の本を作るというのも、学生援護会(パーソルキャリアの前身のひとつ)に面白い人がいるからと紹介されて、そこから始まった話ですし。『タイ読本』も、青山さんの企画を形にするために、自分は裏方で構わないというスタンスだったんじゃないでしょうか。

―悪名高き東京公司との仕事ですから、何かトラブルになったことはありますか?
◉たいしたことではないですが、『タイ読本』に青山さんの書いた記事で抗議が来たことがありました。タイ、ミャンマー、ラオスがメコン川で接する一帯がゴールデン・トライアングルですが、当時、タイのチェンライからメコン川を渡った対岸にミャンマー領の中洲[なかす]があって、そこをカジノとして開発する計画が進んでいたんです。タイの大手財閥が主導する事業ですが、バブル期の海外リゾート開発事業の流れで日本企業も関わっていた。それを青山さんがコラムで、「世界最大の麻薬地帯に進出しようとしているのだから、この企業も裏社会とつながっているにちがいない」と書いたんです。
◉そうしたら、その会社から「自分たちはまっとうな事業をしているのに、ヤクザと同列に扱うのは何事だ」と抗議があったんです。青山さんに聞いたら、とくに裏づけがあるわけではないということだったので、私が謝りにいきました。
◉たしか六本木か西麻布の洒落たビルに入っていて、受付にはキャバ嬢のような派手な女性がいる会社で、出てくる人もどう見ても怪しいんですが、根拠がある記事ではないので、「ミャンマーの経済復興を支援するための事業で、自分たちは貧しい国の復興を手助けしている」という話を神妙な顔で拝聴しました。向こうも弱小出版社を相手にしても仕方ないと思ったのか、謝罪文を渡すだけですみましたが。
◉その後、その会社はやはり大きな暴力団のフロント企業だったという話を聞きました。結局、事業資金を集めることができずに頓挫したようです。ゴールデン・トライアングルのそのカジノはいちおう開業して、2010年頃に旅行で訪れて、小説『タックスヘイヴン』(幻冬舎文庫)の舞台に使いました。

─それ以外には何かトラブルはありましたか?
◉それほど深刻なものはないです。青山さんも吉永さんも、もともと慎重なタイプなので。ただ、『タイ読本』の次に作った、別冊宝島の『裏ハワイ読本』で、吉永さんが担当した記事について、自分の文章が盗用されているという抗議が来たことがありました。読んでみると、たしかに瓜二[うりふた]つです。
◉でも吉永さんに聞いてみると、その人の本は知らないという。それでネタ本を教えてもらったら、そこにまったく同じ文章が載っている。ようするにライターと抗議してきたその人は、同じネタ本から文章を書き写していたわけです。
◉そのことを本人に伝えたら電話で激怒されましたが、はっきりと「あなたの文章を盗用したわけではない」と突っぱねました。あまりほめられたことではありませんが、当時は、翻訳本や古い本であれば、引用だと明示せずに使うことがけっこう行われていたんです。
◉青山さんたちとはドラッグの本も作りましたが(別冊宝島『気持ちいいクスリ』)、そういうときは、こちらも気を使っているので問題は起きないんです。ささいなコラムとか、書き写しても文句は来ないだろうという記述が、思いがけないトラブルになる。といっても、大きな問題にならなかったので、どちらも今となっては懐かしい思い出ですけど。

「訴えられる企画はないの」と言われた時代

─『SPI攻略本』はリクルートから著作権侵害で訴えられたとのことですが、橘さんがいた頃の宝島社は、裁判になってもとくに問題のない会社だったのでしょうか。
◉創業社長をはじめ、幹部全員が学生運動の活動家出身ですからね(笑)。新興宗教団体から訴えられたり、地方の私立学校から出版差し止め訴訟を起こされたり、いろいろありましたが、それで叱られたことはないです。そればかりか営業部長から、「最近、何か面白いことないの」「裁判で訴えられるような企画はないの」と言われましたから。訴えられると話題になって、本が売れると思ってるんです。今考えると、とんでもない話ですけど(笑)。

─若い編集者にとっては、やりやすい環境だったのですね。
◉企画については、どんなことでもやらせてもらえました。1980年代は、社長は海外事業や映画に夢中で、出版部門はそれなりの利益を出していさえすれば、あまり関心がなかったんじゃないでしょうか。予算はないけれど自由はある。大手出版社と同じような本を作っても勝負にならないから、他が手を出さないようなニッチを見つけて、できるだけ目立つことをやろうとする。結果的にそれで本が売れたので、トラブルを気にしていてもしょうがないという雰囲気でした。今と違ってSNSで炎上することもないし、いいか悪いかは別として、名誉毀損で訴えられて敗訴しても、支払うのは微々たる金額というのもあったと思います。

─そうした姿勢だと、大きな問題も起きたでしょうね。
◉私が直接関わっていたわけではないのですが、もっとも大きなトラブルは、『宝島30』という雑誌に皇室の内幕を暴露する記事を掲載して、右翼から会社に銃弾を撃ち込まれたことですね。同時に文藝春秋の社長宅も銃撃されたので大きな事件になったのですが、そのときは、会社に行ったらシャッターに穴が開いていて、警察がたくさん集まっていて、「いったい何が起きたんだろう」という感じでした。
◉でも、誰かが撃たれたわけではないので、あまり深刻には考えていなかったですね。突然、日本中から注目されて面白いというか(笑)。みんな若かったので、映画かドラマの話のようで、銃撃ということをリアルに感じられなかったんです。上の人たちは大変だったみたいですが。

─自由だったというより、危険の大きさを理解していなかったのでしょうか。
◉その方が近いと思います。何をやっても許された理想的な時代だった、という話ではないんです。若い編集者には社会の常識がなく、会社にも明確なルールがなかった。出版業界にもまだ余裕があったから、バカげた失敗も笑い話になった。そもそも出版なんて、一部の大手を除けば、ドロップアウトした人間の集まりですから。自由と無知、勢いと危うさが、全部一緒にあったんだと思います。

─ムチャな企画を成立させるために、編集者がライターの原稿に深く手を入れることも多かったのでしょうか。
◉別冊宝島は毎回テーマが違うので、政治家、大学教授からヤクザや風俗嬢まで、いろんな人に会うことができた。有名な著者から原稿をもらえば終わりではなく、まず取材できる相手を探して、話を聞かせてもらう。そうしてできてきた原稿が特集の意図と合わなければ、編集者が書き直していました。私もムックの原稿の8割くらいリライトしたことがありましたが、それが当たり前でしたね。編集者が「こういう本を作りたい」というビジョンを持っているんだから、原稿はそれに合うように直せばいい、という発想です。

─その経験は、現在の作家活動にもつながっていますか。
◉はい。私はいちおう「作家」を名乗っていますが、自分の感覚としては「橘玲というキャラクターを編集している」に近い。興味のあることを調べ、橘玲というキャラをどのように使えば、読者にいちばん届くかを考える。別冊宝島で身につけた編集者の発想は、今も変わっていません。

─自由な出版界の空気が変わったのは、いつ頃からでしょうか。
◉1995年頃でしょうね。バブルが崩壊し、サブカルチャーのブームも終わって、本の売り上げも落ちていった。サブカル雑誌だった『宝島』はヘアヌード雑誌になり、それまで自分たちは若者文化の最先端だと思っていた編集者にとっては大きな転換でした。会社は「文化」よりも「儲かるかどうか」を優先するようになり、ストリートファッション誌を主体に復活しますから、経営としては正しいんだけど、私はもういいかなと思いました。

『危ない1号』のヒットで、可能性が閉ざされた

─1995年には『危ない1号』が創刊され、青山さんは「鬼畜系」の中心人物として知られるようになります。橘さんは、その現場を近くで見ていたのでしょうか。
◉いや、その頃は『宝島30』の編集長で、1995年にオウム真理教事件があり、その取材で手いっぱいだったので、吉永さんたちから話は聞いていたものの、『危ない1号』の現場を見ていたわけではないです。
◉『宝島30』は「オウムを擁護している」と叩かれましたが、それによって山梨県のサティアンや南青山(東京・港区)の教団本部を訪れ、信者や幹部に直接、話を聞くという、編集者としてめったにない経験をすることができました。それを半年くらいやって、「自分の編集者人生で、これ以上の出来事はもうないだろう」と思いました。私にとっては、オウム事件が一つの時代の終わりになっています。

─同じ1995年に、橘さんはオウム事件を追い、青山さんは『危ない1号』で注目を集めたのですね。
◉そうですね。お互いの場所は少し離れていますが、どちらも1990年代前半までのサブカルチャーが、ひとつの極点に達したということだったのかもしれません。オウム事件によって、それまで面白がっていた精神世界の危うさが、現実の犯罪として突きつけられた。一方で『危ない1号』は、タブーを破る表現をさらに先に進めた。同じ時代の終わりに対して、別々の方向へ進んだようにも思えます。

─青山さんの私生活やドラッグ仲間についても、ある程度は知っていたのですか。
◉噂は聞いていましたけど、私生活はほとんど知りませんでした。私はあくまで仕事を通して青山さんを見ていたし、少し距離もあった。だから話せるのは、自分が一緒に仕事をしたときのことと、周囲の人から聞いたことです。この区別はしておいた方がいいと思います。

─仕事で見ていた橘さんには、「鬼畜系」という呼び方はどう映りましたか。
◉青山さんは、最初から「鬼畜系のカリスマ」になろうとしたわけではなかったと思うんです。ドラッグ、精神世界だけでなく、トランスミュージックから現代思想、能科学まで、関心の領域はものすごく広かった。ところがドラッグ関係の本が売れ、『危ない1号』が人気になると、周囲は「過激で狂った青山正明」を期待するようになる。それについて本人から聞いたことがあるわけではないですが、半ば「鬼畜」を演じながら、そのキャラクターから逃れたいという気持ちもあったんじゃないでしょうか。

─晩年は、精神世界への関心が強くなっていたのでしょうか。
◉そういう話はしていました。ドラッグと精神世界は、意識を変えるという点ではつながっていますから、青山さんのなかでは突然の方向転換ではなかったのでしょう。ただ、「鬼畜系」のイメージがあまりに強すぎて、一種のカルトヒーローになったことで、次のテーマに移る足場を作りにくくなった面はあったと思います。

─あり余る才能を、作品として形にし続ける難しさもあったのでしょうね。
◉そうですね。青山さんは、面白いことを見つけて、そのアイデアを膨らませる才能はものすごくあったんですが、それをなかなか書こうとしない。編集者の間でも、「話は面白いのに本にならない」著者が話題になることがありますが、正直、そういうところはあったのかなと思います。完璧主義なのかもしれないし、目の病気で失明するんじゃないかと気にしていた時期もありました。

─東京公司の崩壊過程について、橘さんが憶えていることはありますか。
◉東京公司を離れるとき、メンバーの一人が挨拶に来たことがあります。青山さんの妄想がひどくなったので、「これ以上、一緒にいるのは怖い」という話でした。薬物との関係はわかりませんが、その頃からあまりいい話を聞かなくなりました。青山さんがアイデアを出し、まわりが動くことで成り立っていた集団だから、人間関係が崩れると制作の仕組みそのものも動かなくなる。あの頃から、東京公司は少しずつ壊れていったんだと思います。

「鬼畜系」だけで、青山を説明できない

─青山さんが亡くなったのは2001年です。橘さんが作家として独立していく時期とも重なります。
◉青山さんが亡くなった翌年に『マネーロンダリング』(幻冬舎)で作家デビューしました。私にとっては、編集者としての時代が終わり、別の生き方に移った時期と重なっています。その意味で、青山さんの死はすごく象徴的でした。

─さまざまな書き手や編集者に会った橘さんから見ても、青山さんは特別な存在でしたか。
◉とても魅力的でした。話し始めると発想が次々に出てきて、まわりを夢中にさせる。編集者として見れば、これだけの素材があれば、いくらでも本ができると思う。でも、才能があることと、その才能を安定して作品に変え続けることは別の能力です。青山さんの場合は、本人の発想だけでなく、それを受け取って動く人たちまで含めて、一つの編集システムになっていた。そこが面白さであり、難しさでもあったのでしょうね。

─今、若い世代が「鬼畜系」を研究したり、同人誌を作ったりしています。同じ時代を生きた者として、どこに目を向けてほしいですか。
◉刺激の強い誌面だけを見れば、1990年代の鬼畜系は文化として面白いでしょう。でも「鬼畜系」という言葉だけで青山さんを理解すると、彼が持っていた好奇心の広さや、みんなを巻き込んで場を作る力が抜け落ちてしまう。『突然変異』から『タイ読本』、東京公司の仕事、ドラッグ、精神世界まで、青山さんはいくつもの可能性を持っていたと思います。

─青山正明を語るうえで重要なことは何でしょうか。
◉過激なものを作った人、というだけで終わらせないことじゃないですか。青山さんが何を面白いと思い、それをどう話し、誰が動いて本になったのか。吉永さんたちも含めた人間関係や編集の仕組みまで見ないと、あの時代に青山さんのような人物がなぜ現れたのかはわからない。刺激の強い誌面だけを並べると、青山さんを大きく扱っているようで、かえって矮小化してしまう。作品だけでなく、それが生まれ、商業出版として成立するまでの過程も記録して初めて、青山正明と1990年代の出版文化の全体像に近づけるんじゃないでしょうか。

禁・無断転載

 

中国サッカー観戦記 2013年4月

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2013年5月公開の記事です。(一部改変)

Academia Centrum Limited/Shutterstock

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サッカーワールドカップの1998年フランス大会、2010年南アフリカ大会で日本代表の指揮をとった岡田武史氏は、2012年に中国に渡ってスーパーリーグ(「中超」、日本のJ1リーグに相当)の杭州緑城を率いた(2013年11月に退任)。私は13年4月に岡田氏が率いる杭州緑城の試合を観戦したので、以下はそのときの記録だ。

なお、中国のサッカー事情も当時のもので、現在は変わっているかもしれない。

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浙江省の省都・杭州(Hangzhou)は上海の南西150キロほどのところにあり、高速鉄道を使えば1時間弱の距離だ。長江(揚子江)デルタが生んだ中国を代表する古都のひとつで、世界遺産に指定された西湖の周囲には古寺名刹などの見所が集まり、全国から観光客が押し寄せてくる。

緑が多いのもこの町の特徴で、古くから“緑城(Green Town)”の名で親しまれてきた。フットボールクラブの名もここからとられている(縁起のいい「金」の字を使って、「大金緑城」ともいう)。

2013年からは元日本代表フォワードの大黒将志が加わったこともあり、上海から足を延ばし、4月27日(土)に開催される強豪・山東魯能との試合を観戦することにした。

13年は5月1日のメーデーが水曜日で、中国では4月29日(月)と30日(火)も休みにして、27日(土)から5連休になった。2月の旧正月、10月の国慶節と並ぶ中国の大型連休で、西湖をめぐる遊歩道はたいへんな人だかりだった。

杭州緑城のホームスタジアムはこの西湖から車で10分ほどのところにある黄龍体育中心(Yellow Dragon Sports Center)で、2000年に建設された収容人員5万1000人の大規模施設だ(陸上競技場と併用)。中国でスーパーリーグを観るのはこれがはじめてで、どれくらい混雑するかわからなかったので、昼過ぎに杭州駅に着くとそのまま球場にチケットを買いに行った。

黄龍体育中心にはショッピングセンターや飲食店街が併設されていて、どこに行けばいいかわからずうろうろしていると、緑城のユニフォームを着たサポーターが「日本人かい?」と英語で話しかけてきてチケット売場まで案内してくれた。チケット売場では若い女性が、日本語で席種や値段を説明してくれた。上海から近いこともあって、杭州まで試合を観に来る日本人も多いのだろう。

試合は午後7時半からだったので、いったん西湖まで戻り、ビールを飲みながら時間をつぶして試合開始1時間ほど前にスタジアムに戻った。

私の席はバックスタンド下階の中央あたりで、料金は90元(約1400円)だった。日本のJリーグでもバックスタンドの自由席は2000円程度だから、中国の物価水準を考えるとかなり強気の価格設定だ。

そのせいもあるのか、選手がすでにピッチで練習を始めているというのにメインスタンドにはほとんど観客はおらず、バックスタンドのホーム寄りにサポーターと思しき観客がぽつぽついるだけだ。

こんな調子でほんとうに大丈夫なのかと思っていると、試合開始30分くらい前から観客が入りだし、バックスタンドの下層階は6割くらいまで埋まった。

後で話を聞くと、暦の上では5連休でもほとんどの会社が休日出勤させるので、土曜と日曜を通常営業にした3連休のところが多いのだという(日曜でも銀行が開いていて驚いたことがあるが、その理由がようやくわかった)。観客の多くは、仕事が終わってからバイクなどに相乗りして駆けつけてきたのだ。

選手紹介の時には、控えに入った大黒将志の名前が呼ばれたところで拍手が沸き、最後に岡田監督の名前が読み上げられると場内は大歓声に包まれた。「岡田武史」と大書された横断幕のほかに、岡田監督の似顔絵を描いたゲーフラも掲げられている。

「関係(グワンシ)」と共産党政治委員で選手起用が決まる

試合は前半開始直後からブラジル人のサイドハーフを中心に緑城の圧倒的な攻勢で、たちまちのうちに2点を先取したものの、前半終了直前になんでもないセットプレーから失点して2対1で折り返した。後半に入っても15分までは緑城が攻めつづけ1点を追加したが、このあたりから体格に勝る山東に押されるようになり、40分過ぎにふたたびセットプレーから失点。

前掛かりになって攻める山東に対し、緑城はディフェンダーの裏へのスルーパスで対抗する。これが面白いように決まって、ヨーロッパでもプレーしていたコートジボワール人のフォワードが何度もキーパーと1対1になるもののことごとく外し、1点差のまま後半ロスタイムに大黒と交代した。しかしロスタイム4分、ほとんどラストプレーでまたもやコーナーキックから失点を喫し、3対3の痛恨の引き分けに終わった。

同点弾を浴びた時、場内は「アイヤー!(なんてこった!)」の絶叫で、椅子を蹴って悔しがるファンもいたが、試合が終わると拍手で選手を迎え、なかなかいい雰囲気だった。

岡田監督はインタビューなどで何度か中国サッカーの現状について語っている。

中国社会が「関係(グワンシ)」で成り立っていることはよく知られているが、サッカーでもオーナーや監督などチームの有力者と「関係」のある選手はスタメン出場が約束されていた。これではほかの選手がやる気をなくすのも当たり前で、岡田監督はオーナーと話をしたうえで「関係」のある選手を放出し、すべての選手に平等にチャンスが与えられるようにした。

中国の行政制度は首長と共産党の政治委員の二頭体制だが、サッカークラブでも同じで、緑城に配属された共産党政治委員が選手起用にまで意見するのが当たり前だった。こうした慣習もやめさせて、ユース年代の育成を含むすべての責任と権限を監督に集中させた。

そのうえで、元日本サッカー協会技術委員長の小野剛氏をヘッドコーチに迎え、若手を育成してトップチームに引き上げて行く体制を築き上げた。北京や上海、広州など資金力を誇るビッグクラブと同じことはできないからだが、それがサポーターの支持を集めているのだという。

これは中国にかぎらず世界共通だが、サッカーのサポーターはチームがすべてだ。中国で「反日」の嵐が吹き荒れ、他チームのサポーターが日本人監督を揶揄中傷すればするほど、緑城のサポーターは「俺たちの監督」を熱烈に支持するようになる。だが岡田監督が信頼されるのは、それだけではないようだ。

中国サッカーは2002年の日韓大会ではじめてワールドカップに出場したものの、その後は3大会連続で予選で敗退している。また選手の薄給などから八百長が常態化しており、13年2月には選手ら33人がサッカー界から永久追放され、ビッグクラブの上海申花が2003年のタイトルを剥奪された。こうした不祥事で、スーパーリーグはファンから見捨てられかねない危機的状況にある。

中国のサッカーファンは、自分たちのサッカー文化が遅れていることに気づいている。「関係」によって選手の扱いが変わったり、共産党員というだけで素人がプロの仕事に口出しすることがおかしいのは誰だったわかるが、中国人同士だと権力者に面と向かってその悪弊を指摘できない。だからこそ、“外の世界”からやってきて中国社会を改革する日本人監督に拍手喝采を送るのだろう。

日韓ワールドカップで日本代表を率いたフィリップ・トルシエは、日本人選手には大人としての自覚がないとして、遠征先でホテルにこもるのではなく、積極的に街に出て現地のひとびとと交流するよう指導した。今ではそれと同じことを、日本人の岡田監督が中国人選手に求めている。

中国人選手はほとんどが寮生活で、日々の生活のあらゆることがルールとスケジュールで決められていた。岡田監督は門限の撤廃をはじめとして不要なルールをすべて取り払い、選手の自主性と自己管理に任せた。

「最悪なのは、監督がここにいろって言ったからって何も考えずにカバリングしているヤツ。それは俺に言わせりゃ選手じゃない。日ごろの生活で人に言われたことだけやっていたら、試合のなかでも責任を持って判断できなくなる」(『Number』818号「岡田武史 挑戦の一年を振り返る」)

岡田監督は中国サッカーに自由と自己責任の“グローバルスタンダード”を持ち込んだ。それが中国社会のローカルなしがらみにうんざりしていたサポーターたちのこころをつかんだのだろう。

中国のプロサッカーリーグが抱える困難

2002年の日韓ワールドカップ出場を受け、中国のプロサッカーリーグ、スーパーリーグが2004年に鳴り物入りで始まった。しかし今回スーパーリーグの試合を実際に観て、これを興行として成り立たせるのはそうとうに難しいと感じた。理由は単純で、中国はひとつのリーグで運営するには広すぎるのだ。

杭州のある浙江省だけで人口は5400万人もいる。これに同じ長江デルタ文化圏の上海市(人口2300万人)と江蘇省(人口7800万人)を加えれば、その人口は日本を上回る1億5500万人にもなる。本来ならこの地域だけでじゅうぶんにプロサッカーリーグを運営できるはずで、実際、上海の3チームのほかに江蘇省と浙江省に各1チームがあり、スーパーリーグ全16チームの3分の1を占める。

これらのチームは同じ地域同士のダービーマッチが成立するだけまだマシだが、あとは広州、山東、遼寧に2チームが所属しているほかは北京ですら1チームしかなく、人口5000万人を超える河南、四川、河北、湖南、安徽の各省にはスーパーリーグのクラブがない。これでは、中国全土を巻き込んだサッカーブームなど夢のまた夢だ。

杭州緑城との試合にも上海や杭州に住む山東省出身者を中心に魯能の熱心なサポーターが集まっていたが、その数は200人ほどだった。山東省から「外国」に等しい杭州まで観戦に駆けつけるのは難しいだろうから、応援は現地で暮らす地元出身者に頼るしかない。大都市の上海が近くにあってもこの人数なのだから、地方クラブの集客ははるかに困難にちがいない。

中国の巨大な人口からすれば、それぞれの省にプロリーグがあってもおかしくはない。そうするとスーパーリーグは、各リーグの上位チームが省を超えてたたかうヨーロッパチャンピオンズリーグのようなものになるはずだ。それぞれの省から優れた選手を選抜して代表チームをつくり、ヨーロッパカップのような“チャイナカップ”も開けるかもしれない。

スーパーリーグの下位に日本のJ2に相当する甲級リーグがあるが、ここでも満州から広東までの16チームが総当たり戦をしている。その下の乙級リーグ(日本のJFLに相当)になってようやく北地区と南地区に分けられる。

イングランドのプレミアリーグに地元の観客が熱狂するのは、「俺たちのチーム」が「あいつらのチーム」を叩きのめすからだ。相手チームのサポーターが大挙して押しかけてくるぐらいでないと試合は盛り上がらない。

移動の負担があまりにも大きいと、選手もサポーターも疲弊してしまう。地元のチーム同士がプライドを賭けてたたかう試合を増やしていかないと、地域に根ざしたスポーツ文化は生まれないのだ。

中国にも素晴らしい素質を持った選手はたくさんいるはずだが、育成や指導以前に、若者たちに希望を与え、優秀な選手を草の根から発掘するシステムがいまは存在しない。人口に比べてプロ選手の数は圧倒的に少なく、地元の有望選手でもほとんどはプロへの道を諦めてしまう。

ラクダが針の穴を通るような確率でプロサッカー選手になれたとしても、サッカー人気が盛り上がらなければ選手たちは薄給に甘んじ、八百長の誘惑に駆られることになる。人口5400万人の地域の唯一のクラブが1万人も集客できないのではあまりにも寂しい。

岡田監督は、U11(11歳以下)からU19(19歳以下)まで、ユース年代の選手たちを組織的に育成することで、この美しい古都にサッカー文化を根づかせようとしている。こうした地道な努力が実を結んで、いつの日か5万人の大観衆のなかで、Jリーグのチームとクラブアジアチャンピオンの座を争う姿を見てみたい。

禁・無断転載

フィリピンで介護を受ける日本人高齢者たち


ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2013年5月公開の記事です。(一部改変)

当時は本人の許可を得て実名にしましたが、それからかなり時間がたっているので、入居者はイニシャルに変えました。

その後の10年で状況は様変わりし、いまでは円安で外国人が日本に長期滞在するようになりましたが、以前はこうだったという記録として載せておきます。

スービックのトロピカル・パラダイス・ヴィレッジ(2013年5月撮影)Alt-Invest.Com

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「海外で年金生活」が話題を集めた時期があった。といっても、過去形にするのは間違っている。海外での長期滞在を支援するロングステイ財団が主催するセミナーや相談会はリタイアした団塊の世代でいつも満席で、ロングステイヤー(海外長期滞在者)の生活を取材する雑誌記事やテレビ番組も頻繁に目にする。

だが海外生活への関心は、時代とともに少しずつ変わってきている。

第一次のブームは1997年の金融不安の頃で、「日本の財政はいずれ破綻し円は紙くずになるのだから、日本を脱出して海外で余生を過ごすしかない」と考えるひとたちが現われた。私もこうした最初期の海外脱出組を何人か知っているが、けっきょく日本に帰ってきたひともいれば、現地で家族をつくり根を下ろしたひともいる。

その後、2000年のインターネットバブル崩壊後の円高で、日本とアジアの国々の物価のちがいを利用して年金を有効活用しようと、海を渡る高齢者が増えてきた。タイやマレーシアが長期滞在の定番だが、フィリピンに向かう独身男性もいて、10年を経て「困窮邦人」が大きな問題になってきたことはすでに述べた。

マニラの「困窮邦人」という衝撃

2008年のリーマンショック後の“超円高”によって、リタイアした団塊の世代の関心がふたたび海外に向かった。しかし最近は、年金を頼りに海外に永住するというよりも、日本を生活の拠点としつつ、夏や冬の時期だけ海外の別荘(セカンドハウス)にショートステイするひとたちが増えているという。

こうした傾向は、社会の高齢化が進んだことで富裕な高齢者の絶対数が増えたことと、日本経済が長いデフレに苦しんだ結果、もはやアジアで暮らすことが「割安」ではなくなったことから説明できる。

もちろんいまでもアジアのほとんどの国は日本より貧しいが、バンコクやクアラルンプールといった大都市で外国人向けのコンドミニアムに暮らし、日本料理店に通ったり、日本の食材を定期的に購入すれば、日本よりもずっと生活コストが高くなってしまう。アベノミクスで円安が進んだため、現地通貨で換算した年金が目減りして悲鳴をあげている退職者は多い。

こうしていつのまにか、生活防衛のための海外生活は、富裕な高齢者の「第二の青春」へと変わっていった。

しかし元気な高齢者も、10年後、20年後には介護の問題を抱えることになる。高齢者の増加と社会保障費の膨張を考えれば、そのときに日本の介護保険や医療保険制度が現在のまま維持できるとは限らない。

このようにして、海外で日本人の高齢者に介護サービスを提供するビジネスが模索されるようになった。 続きを読む →