作家・橘玲(たちばなあきら)の公式サイトです。はじめての方は、最初にこちらの「ABOUT THIS SITE」と橘玲からの「ご挨拶」をご覧ください。また、自己紹介を兼ねた「橘玲 6つのQ&A」はこちらをどうぞ。
「失われたアーク」を探すエピオピアへの旅(1)
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2019年6月公開の「映画『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で描かれたモーセの十戒を刻んだアークはエチオピアにあるのか?」です。(一部改変)

******************************************************************************************
スティーヴン・スピルバーグ監督、ハリソン・フォード主演の『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』はインディ・ジョーンズシリーズの第一作で、1981年に公開され世界中で大ヒットした。
失われたアーク(The Lost Ark)はモーセの十戒が刻まれた石版を収めた「契約の箱」のことだ。
ユダヤの民を率いて出エジプトを敢行したモーセは、シナイ山で神ヤハウェ(エホバ)から「汝、殺す勿れ」など10の戒律を授けられる。契約の石版はアーク(木箱)に収められてエルサレムに運ばれ、最初の神殿に奉納された。
だがユダヤ教にとってもっとも重要なこの秘宝は、紀元前9世紀のソロモン王の治世以降、旧約聖書ではほとんど触れられなくなり、所在もわからなくなってしまう。アークは失われたのだ。
映画では、アークはエジプトのナイル川デルタにあるタニス(古代エジプト王朝の北方の首都)の遺跡に隠されており、それをナチス・ドイツが発掘する話になっているが、これはまったくの創作でなんの根拠もない。
ではアークはいったいどこにあるのか? それはエチオピアだ。
エチオピアには古代ユダヤ王朝があった
エチオピア(旧名アビシニア)が「キリスト教国家」だというと、大航海時代以降、ヨーロッパの宣教師たちによって布教されたのだと思うだろう。しかしこれは大きな間違いだ。
エリトリアに近いエチオピア北部の古都アクスムの建都は、伝説によれば紀元前1000年で、すくなくとも紀元前1世紀にはアクスム王国が栄えていたことは歴史資料からも明らかだ。
このアクスム王朝がキリスト教を受け入れて国教としたのはエザナ王の治世(325~350年)で、ローマ帝国のテオドシウス帝がキリスト教を国教と定めたのが392年だからそれよりも早い。エチオピアは東方のアルメニアと並んで、世界最古のキリスト教国なのだ。
さらに興味深いことに、エチオピアには「ファラシャ(流民)」と呼ばれるユダヤ教徒もいた。彼らはエチオピア北部のタナ湖周辺に暮らしていたが、イスラエルの帰還政策により1980年代以降、ほぼ全員が移住した(「ファラシャ」には侮蔑的なニュアンスがあるとして、最近では「ベタ・イスラエル(イスラエルの民)」や「エチオピア系ユダヤ人」が使われる)。
どのようにしてエチオピアにユダヤ教が伝わったのかはほとんどわかっていないが、かつてユダヤ教の王朝があったことは確からしい。それがキリスト教の国教化によって衰退し、北部の一部に押し込められ細々と伝統を守ってきたのだ。
エチオピアのキリスト教は、エジプトのコプト教の強い影響を受けている。地中海世界に広がったキリスト教の拠点(五本山)はローマ、コンスタンティノープル(イスタンブール)、エルサレム、アレクサンドリア(エジプト)、アンティオキア(シリア)で、東アフリカの辺境にあるエチオピアがもっとも近いエジプトの正教を取り入れたとしても不思議はない。
エチオピアのキリスト教化の経緯を記した4世紀ビザンチンの歴史書によると、アクスム王に仕えたシリア人のフルメンティウスが、アレクサンドリアを訪れて主教にふさわしい人物を派遣してほしいと総主教のアタナシウスに懇願した。アタナシウスはフルメンティウスの英明さと献身を見て、主教に叙任して神の恩寵を受けた土地に戻るよう命じたとされている。
「保守vsリベラル」から「右翼vs中道」へ(週刊プレイボーイ連載671)
*1月22日執筆のコラムです。
1月19日に高市早苗総理が衆院解散を表明しました。前回の選挙から1年3カ月、議員の任期を大幅に残したまま、予算案の審議を止めて総選挙を行なうことには批判もありますが、維新の閣外協力で不安定な国会運営を続けるよりも、高支持率のいま国民の信を問おうと考えるのは自然です。
それより驚いたのは、立憲民主と公明が「中道改革連合」という新党を結成したことです。
このあいだまで与党だった公明党は、自民との再連立の憶測も流れましたが、“右傾化”する高市自民ではもはや支持者がついてこないと見限ったのでしょう。立憲民主としては、公明と連立すれば衆院で170人規模の勢力となり、小選挙区では公明党の宗教票が期待できます。
「中道」という言葉は創価学会の故・池田大作名誉会長が好んだ仏教用語で、これを党名にしたのは、新党結成でうまみが大きな立憲民主が、公明に気を使ったからだといわれています。たしかに説得力がありますが、ここでは別の視点党名を考えてみましょう。
立憲民主党は2017年、前身である民進党が小池百合子氏の希望の党との合流を決めたとき、小池氏から「排除」された議員らが枝野幸男氏を中心に集まり、「リベラルの旗を守る」ために結党しました。総選挙では枝野氏の街頭演説に数千人の聴衆が集まるなど、大きなブームを巻き起こして、希望の党の50議席を上回る55議席を獲得したことで、リベラル(立憲民主)と保守(自民)の対立の構図が定着します。
ところがその後、「リベラル」への逆風が強まります。とりわけ中国の習近平政権が軍備を拡張し、台湾問題や尖閣などで挑発を繰り返すようになると、安保法制に反対し「憲法9条を守っていれば平和になる」と唱える戦後リベラルはきびしい批判にさらされるようになりました。それに加えて、第二次トランプ政権の成立などで欧米先進国でもリベラルが退潮し、日本のSNSでも「リベラル叩き」が広がります。
立憲民主の議員たちが「排除」された理由は安保法制を「違憲」としたからですが、新党結成にあたって野田佳彦代表は「違憲部分の廃止」を撤回し、「自国防衛のための自衛権行使は合憲」と明記しました。国民民主の分裂では「原発ゼロ」をめぐる意見のちがいが理由のひとつになりましたが、これも条件付きでの再稼働を容認しました。
すべての政党が平均的な有権者が支持する政策を採用するようになるのが「中位投票者定理」で、イデオロギーで分極化するアメリカに対して、日本は理論どおり、主要政党の政策がほとんど区別できなくなりました。しかしこうなると、なんのために立憲民主を結党したのかわからなくなってしまいます。
野田氏らが自らのアイデンティティを否定してまで党名を変更したのは、「保守対リベラル」の構図では、もはや選挙は戦えないと思い知ったからではないでしょうか。だからこそ、それを「右翼対中道」の対立に変えようとしたのです。
立憲民主が「リベラルの旗」を下ろしたことで、日本の政治におけるリベラルは共産党とれいわ維新になってしまいました。日本のリベラルメディアやリベラルな知識人ははたしてこれでいいのか、気になります。
【後記】2月8日に行なわれた衆院選で中道改革連合は選挙前の議席を半減させる大惨敗を喫し、この賭けは失敗に終わりました。
『週刊プレイボーイ』2026年1月26日発売号 禁・無断転載
「正教」とはどのような宗教なのか
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2014年5月公開の記事です。(一部改変)

******************************************************************************************
前回は、キリスト教の歴史にローマ(カトリック)史観とは別に、コンスタンティノポリスからモスクワに至るビザンティン史観があることを書いた。
参考:「キリスト教の中心はバチカンではなくモスクワ」という歴史観
わたしたちは無意識のうちに、キリスト教を欧米(アメリカと西ヨーロッパ)の宗教だと考えている。カトリックにしても、わたしたちが思い浮かべるのは中世のそれではなく、ルネサンス以降のキリスト教だ。
しかしヨーロッパの東にはもうひとつのキリスト教がある。それが正教(オルソドックス)だ。これがギリシア正教とも呼ばれるのは、信仰の中心であった東ローマ=ビザンティン帝国が「ギリシア人の国」だったからだ。
それでは、正教とはどのような宗教なのだろうか。もちろん私は宗教の専門家ではないから、ここでは日本で数少ない正教の司祭であり、『ギリシャ正教』(講談社学術文庫)などの本で啓蒙活動を行なっている高橋保行氏の著作からその特徴をいくつか紹介してみたい。
そもそもなぜ「正教」なのか?
ギリシア語の「オルソドックス」は「オルソス(正しい)」と「ドクサ」からなり、ドクサには「教え(意見、主張)」のほかに「神を賛美する」という意味がある。オルソドックスとは「神の正しい教え」であるとともに、「正しく神を賛美する」教会を表わしている。伝統的(オーソドック)とは、この「正しさ」を保守し後世に伝えていくことだ。
こうした考え方が出てきたのは、当然のことながら、キリスト教のなかに「正しくない」教えが現われ、それが影響力を増してきたからだ。これらの異端に危機感を抱いた教会は各地の代表者を集め、正しい教えを定める「公会議」を開いた。
第1回のニケヤ公会議(325年)ではイエスが神(創造者)なのか人(被造者)なのかが争われ、イエスを被造者のなかの最高の存在だとしたアリウス派が異端とされた。第2回のコンスタンティノポリス公会議(381年)では、これを受けて「父」「子」「聖神(精霊)」の「至聖三者(三位一体)」のキリスト教の神概念が確立した(用語は正教で使われるもの)。
第3回のエフェソス公会議では、コンスタンティノポリス総主教のネストリウスと、アレクサンドリア総主教のキリルが、イエスのなかの「神性」と「人性」をめぐって論争した。ネストリウスはイエスに「神」と「人」という別個のものが同居していると主張したが、公会議はこれを異端として、イエスは神であると同時に人であり、完全に二つのものが一体であるとした。
ところがそうなると、イエスの内面がどうなるのかが問題になる。これについてコンスタンティノープルの修道院長ユティカスは、「ひとつの身体のなかに神の性質と人の性質があるのは矛盾だから、人間性は神の性質に飲み込まれ融合した」という単性(質)論を唱えた。第4回から第6回までの公会議は単性主義と、その余波としての単意主義(性質がひとつなら意志もひとつ)をめぐる教義論争で、公会議はこれも異端と見なし、イエスには全き人としての意志と全き神としての意志が矛盾なく存在するとした。
聖書が偶像崇拝を禁じていることはよく知られているが、熱心なクリスチャンだったビザンティン帝国皇帝レオ3世は726年、その教えを理由にイコンを禁止した。イコンに祈ることはキリスト教徒の宗教生活に根づいていたから、これは大問題だった。第7回の第2ニケヤ公会議(787年)ではこの難問が討議され、「クリスチャンはイコンに描かれている者に祈るのであり、イコンを崇拝するのではない」というかなり苦しい理屈でイコンが容認された。
カトリックが第21回の第2バチカン公会議(1962~65年)まですべての公会議を認めているのに対し、正教は第7回の公会議までを正統とする(これが全地公会議で、それ以降はカトリックの地方会議)。
第8回の第4コンスタンティノポリス公会議(869年)は、学者からコンスタンティノポリス総主教となったフォティオス1世の罷免をめぐるビザンティン帝国の内紛にローマ教皇が介入して紛糾し、1054年にはローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教が互いを破門して東西教会は分裂した。
もっともローマ教皇には政治的/軍事的実力がなく、神政一体のビザンティン帝国もイスラームからの圧迫にさらされるなかでは互いに争う余裕はなく、7回の全地公会議で定めた「キリスト教の真髄」を共有しているという危うい安定が続いた。
東西教会の分裂よりも決定的な影響を与えたのが第4回十字軍(1202~04年)で、ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけに応じたフランス諸侯とヴェネティアはビザンティン帝国の皇位争いに加わってコンスタンティノポリスを攻撃し、約束した金品が支払われないと略奪・暴行のかぎりをつくした。これによって東(オリエント)と西(カトリック)の関係は悪化し、東西世界の不信と対立は現在まで続く。 続きを読む →