ひとは誰でも、自分が世界の中心にいると思っています。映画や小説で「世界の終わり」が繰り返し描かれるのは、自分が死ねばこの世界もいっしょに消えてしまうからです。この臨場感は圧倒的なので、世の中にジコチューばかりが溢れるのは仕方のないことです。
自分のことだけでなく、「国家」を語るときにも私たちは無意識のうちにジコチューになっています。集団的自衛権をめぐる議論が不毛なのは、「日本が戦争に巻き込まれる」とか、「沖縄の米軍基地がなければ日本は守れない」とか、常に自分(日本)のことしか考えていないからです。
第二次世界大戦がヒロシマ、ナガサキへの原爆投下という悲劇で幕を閉じたあと、大量の核兵器を保有する大国同士は戦争できなくなりました。植民地主義が全否定されて以降、あらゆる地域紛争は「防衛」の名の下で行なわれています。これは人類史的なパラダイム転換で、それを無視して「戦前の雰囲気に似てきた」との印象論で戦争の恐怖を煽る報道は百害あって一理なしです。
なぜいま集団的自衛権が問題になるかというと、「中国の大国化」という同じく人類史的な出来事がこの20年で現実のものになったからです。それが周辺諸国を動揺させ、地域の安全保障に大きな変化を起こしました。
南シナ海の南沙諸島・西沙諸島をめぐる領有権問題で、社会主義国であるベトナムはかつての仇敵であるアメリカに急接近し、1990年代に米軍が撤退したフィリピンでは再駐留を求める声が圧倒的になりました。中国は「歴史問題」で東南アジア諸国との対日共闘を模索しましたが、インドネシアやマレーシア、シンガポールを含め、どこも「いま目の前にある危機」の方が重要でなんの関心も示しません。中国と蜜月だったミャンマーまで、民主化によって中国から距離を置こうとしはじめました。「領土を脅かされている」という不安の前では、歴史的ないきさつや経済的な利害関係などどうでもよくなってしまうのです。
中国との領有権問題を抱えるアジアの国々は、日本が集団的自衛権のくびきを解いて、対中国包囲網に加わることを強く期待しています。フィリピンのアキノ大統領は憲法9条の改正を求めており、このまま中国との軋轢が強まれば日本の核武装を求める声も出かねません。
それと同時にTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)では、オーストラリアやチリなどを含め、「民主化された自由市場を持つ」国々で中国を経済的に包囲するという米国の戦略が進められています。日本ではTPPも「損か得か」というジコチューな視点でしか語られませんが、安全保障を最優先する安倍政権に参加を拒否する選択肢がないことは「地経学」的に考えれば明らかです。
東アジアで起きているさまざまな出来事の震源は、世界第2位のGDPを持ち、13億の国民を抱え、共産党独裁という異質な政治体制をとる中国の台頭にあります。それが平和的なものになるか、軍事的な脅威となるかで周辺国の運命は大きく変わります。
このような視点が欠落した安全保障の議論にはなんの価値もないのですが、「平和憲法を守れ」と叫ぶひとたちがこのことに気づくことは、残念ながら永遠にないでしょう。
『週刊プレイボーイ』2014年12月8日発売号
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