「グローバリズム」は和製英語?

TPPの議論でも、“グローバリスム”“アンチ・グローバリズム”という言葉が頻繁に使われていますが、以前からこれは和製英語ではないかと疑問に思っていたので、それについて書きます。

このことを教えてくれたのは知り合いのオーストラリア人で、「日本人のいうGlobalismは一般的な使い方じゃないよ」といわれたのですが、これではたんなる印象批評なのでちょっと調べてみました。

Wikipediaで“Globalism”を検索すると、「2つの異なる意味がある」と書かれています。

ひとつは、世界を国家単位ではなく、地球単位で考えるGlobalism(地球主義)で、この意味で“Globalist”というと、環境保護主義者とか、南北問題を考えるリベラル派といった感じになるのでしょう。

もうひとつは、「世界全体に対して政治的影響力を行使する」ことで、国際政治学者ジョセフ・ナイと、カナダのエッセイストJohn Ralston Saulの定義が挙げられています。

ナイの“Globalism Versus Globalization(グローバリスム対グローバル化)”の書評を見ると、Globalismは「経済・環境・軍事・社会・文化的に世界がひとつのネットワークとしてつながりあっている」という“考え方”で、Globalizationは「Globalismの現実的な展開」のことのようです。

ワシントンの出版社が発行しているその名も“The Globalist”というオンライン週刊誌がありますが、「世界の政治・経済・社会的な出来事をGlobalな視点で読み解く」というのが編集方針ですから、これは「グローバルな考え方」というナイの定義と同じです。

一方のSaulの“The Collapse of Globalism(グローバリズムの崩壊)”は、「1970年代の規制緩和によって始まったグローバル化が、1990年代になって経済の崩壊や環境破壊を引き起こし、世界的にナショナリズムが台頭している」というもので、こちらはカタカナの“グローバリズム”とほぼ同じ意味で使っているようです。

Amazon(USA)でタイトルかサブタイトルに“Globalization”とあるものを検索するとペイパーバックだけで8827冊、イギリス英語の“Globalisation”は2037冊ありますが、“Globalism”を含むのはわずか269冊です。このなかには、「地球主義」や「グローバルな考え方」で使っているものもあるでしょうから、カタカナの“グローバリズム”は、間違いとはいえないとしても、やはりかなり特殊な用法のようです。

さらに日本では、“グローバリズム”と“グローバル化”が意図的に混同されています。

たとえばノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』の英文タイトルは“Globalization and Its Discontents(グローバル化とその不徹底)”で、同じく『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』は“Making Globalization Work(グローバル化をちゃんとさせる)”です。

こうした“超訳”は章立てにも及び、「国際機関が約束したグローバリズムの恩恵」は“The Promise of Global Institutions(国際機関の約束)”、「世界を幸せにするグローバリズムの道」は“The Way Ahead(これからの道)”です(いずれも『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』)。

日本の出版社による“超訳(というか誤訳)”が問題なのは、著者であるスティグリッツの意図を大きく歪めてしまうからです。

スティグリッツはこれらの本で、「グローバリゼーションには世界中の人びと、とりわけ貧しい人びとを豊かにする可能性が秘められている」としたうえで、自らの世界銀行での体験をもとに、IMFや世界銀行に巣食う“グローバル化を歪める”テクノクラート(官僚)たちの弊害を批判しています。

スティグリッツは、自分の本が“アンチ・グローバリズム”だといわれてもなんのことかわからないでしょうし、自分は“グローバリスト”だというかもしれません。

こうした混乱が起きるのは、“Globalization”という現実について書かれたものを、“Globalism”というイデオロギーの話にしてしまうからで、これが日本国内でしか通用しないガラパゴス化した議論の原因です。

目の前の現実を否定することはできませんが、ism(イデオロギー)ならいくらでも批判できます。“グローバリスト”というどこにも存在しない仮想敵を叩くのは、気に入らない現実から目をそむけるもっとも簡単な方法なのでしょう。