ずいぶん昔のことだけれど、保護者面談で夜の小学校を訪ねたことがある。私のところは共働きなので、その日の最後に回してもらったのだ。
担任はベテランの女性教師で、いつものように、子どもの授業態度についてあれこれ注意された。ぺこぺこと頭を下げて教室を出ると、誰もいない廊下の向こうから押し殺したようなすすり泣きが漏れてきた。その教室には煌々と明かりが灯り、窓から覗くと、十数人の母親が押し黙ったまま若い女性を取り囲んでいた。
その後、知り合いの親たちに事情を聞いてみると、そのクラスは教師が生徒を管理できず、トラブルが相次いで苦情が絶えないのだという。私が見たのは、クラスの母親たちが学級運営について教師に問い質している場面だった。いまなら“モンスターペアレント”ということになるだろうが、当時はそのような言葉もなく、親が教師を私刑(リンチ)するかのような光景に大きな衝撃を受けたことを覚えている。
とはいえ、他のクラスの親たちの反応は、“被害者”である教師ではなく、クレームをつけるクラスの母親たちにはるかに同情的だった。
いまでも同じかもしれないが、当時は新学期になって担任が交代するたびに、親たちは「当たり」「はずれ」で一喜一憂した。
母親たちにいちばん人気があるのは若い男性の教師で、ベテランであればまあまあ、最悪なのは若い女性教師だ。社会経験の乏しい女教師にまともな学級運営はできない、というのが母親たちの定説で、実際に、若い女性教師が担当する高学年のクラスはほぼ例外なく荒れることになった。
子どもの安全は親にとってきわめて重要だから、「はずれ」を引いた母親は、教師にさまざまな要望を伝えて現状を改善しようとする。この要望はやがて圧力となり、クレームとなって、母親と教師の信頼関係は完全に崩壊することになる。
元高校教師の諏訪哲ニは、「学校は演劇空間である」と繰り返し述べている。
ひとはみな平等であり、教師と生徒は“ひと”と“ひと”して対等である。だが教育という営みは、教師が生徒よりも“エラい”という階層性(差別)を前提としなければ成り立たない。ひとたび校門をくぐったら、「学校」という舞台の上で、教師は「教師」の役を、生徒は「生徒」の役を演じなければならないのだ。
ところが1970年代以降の消費大衆社会のなかで、教師と生徒の「差別」構造は解体してしまった(その象徴が「金八先生」だ)。生徒は、自分と「対等」の人間からなにかを学ぼうとは思わない。学校から教育が失われるのは当然だったのだ。
ところで、終戦直後の「民主教育」の黄金期に、生徒たちはなぜ教師を尊敬したのだろうか。それは、親や地域社会が教師を尊敬していたからだ。
ではなぜ、当時の教員は尊敬されたのか。これは彼らの人間的な魅力によるものではない。1960年代までは、大学卒の学歴を持つひとは地方にはほとんどいなかった。学校の教師は、きわめて稀少な知の権威として、地域社会の最上位に列せられたのだ。
ところが、私の子どもが小学校に通った1990年代には、(すくなくとも東京・杉並では)こうした知の権威は完全に消失していた。その理由は単純で、親の学歴が教師の学歴を上回ってしまったからである。
こうして母親たちは教師を学歴で尊敬しなくなったが、だからといって、自分が教師と「対等」であると考えていたわけでもない。そうなると、残された「尊敬」の根拠は長幼の序(年齢)と性別しかない。
私の経験では、母親たちは若い男性教師を、学歴にかかわらず熱烈に歓迎した。母親たちの厚い支持があれば、教師としての経験が浅くても子どもたちはついてくる。結果として、他のクラスの親たちが羨むような理想の学級が成立した(もうちょっと正確にいうと、若い男性教員に対する母親の感情は「尊敬」ではなく「応援」にちかいだろう)。
皮肉な言い方をするならば、この「成功」は性差別から生まれたのだ。
このことから、若い女性教師の苦境も説明できる。母親からすれば、自分よりも年下で、子どもを育てた経験もなく、一流大学を出たわけでもない女性教師を「尊敬」する理由はどこにもない。こうした態度は家庭で共有されるから、子どもたちは教師の指示に従わなくなり、それが教師の「無能」の証明とされて母親たちの信頼をさらに失っていく。
このようにして、80年代以降、親や地域社会、生徒たちの「信」を失った公教育は迷走しはじめる。その後、さまざまな「改革」が行なわれたが、制度を変えたからといって「信」が復活するわけではないのだから、「ゆとり教育」にしようが、それを廃止しようが、状況が悪化するばかりなのは当たり前だったのだ。
最近の政治の迷走を見て、この古い記憶がよみがえった。夜の教室ですすり泣いていたあの女性教師は、いまごろどうしているだろうか。