東京電力の損害賠償問題が混迷の度合いを増している。これは当たり前で、そもそも政府の支援スキームが電力料金の値上げを前提としているにもかかわらず、安易な料金引き上げを政治的に不可能にしてしまったからだ。
こうした混乱を招いたのは、これが損得の話ではなく正義の問題だということを政府が正しく認識していないからだ。
話の前提として、以下の3点はほとんどの国民が合意するだろう。
- 福島第一原発事故を1日も早く収束させること。
- 原発事故の被害者・被災者にできるだけ早く適切な賠償を支払うこと。
- 電力の安定供給を維持し、電力不足を早急に解決すること。
原発事故の責任問題というのは、これら喫緊の課題を所与として、そのうえでどのような解決策がもっともすぐれているかを考えることだ。
このとき、政府案以外に上記の3つの条件を満たす方法がないとすれば話は簡単だ。政府はそのことを、具体的な数字や根拠をあげて国民に説明すればいい。
ところが現在に至るまで、政府は支援スキームについての明快な説明ができていないばかりか、その任にあるはずの官房長官が、金融機関への債権放棄を求めるなど政府案を批判する急先鋒になっている。これが、混乱の原因だ。
政府案が唯一無二の解決策でないならば、それ以外の代案も検討しなくてはならない。前提条件を満たす複数の解がある場合、その優劣はどのように決めればいいのだろうか。
これには大きく、ふたつの考え方がある。ひとつは「原理主義」で、紛争はあらかじめ決められた正義の「原理」にのっとって処理されるべきだと主張する。もうひとつは「功利主義」で、社会全体の厚生を最大化することを目指す。原理主義と功利主義は正義に対する異なる視点に立っていて、どちらが正しくてどちらが間違っているということではない。
原発事故問題に対する原理主義の主張は、原子力損害賠償法(原賠法)3条にのっとって東京電力の無過失無限責任(厳格責任)を問い、すみやかに破綻処理した後に、政府が賠償責任を引き継ぐべき、というものだ。
ところでここでの原理主義は、原発事故に対する東京電力への報復的な正義の実現を求めるものではない。原賠法3条では、「異常に巨大な天災地変または社会的動乱によって生じたものであるときは」原子力事業者(東電)は免責されることになっている。司法判断によって東京電力の免責が認められたなら、原理主義は法治の原則に従いその決定を受け入れたうえで、妥当な解決策を提案することになるだろう。
法律の専門家のなかには、「異常で巨大な天災」が主因なら免責と考えるべき、との主張もある。野村修也中央大学教授は、「賠償枠組み、整合性に疑問」(日本経済新聞2011年5月25日「経済教室」)で、東京電力を免責したうえで、原賠法17条に基づき国が被害者救済に責任を持つべきだと述べる。この場合は東電の債務超過は回避され、株主責任も貸し手責任も問われないが、東電の人為的なミスがあったことも否定できないので、「(東電には)一般の不法行為(過失)責任に基づき相当程度の基金への拠出を求めるのが合理的」とされている。
一方、功利主義は、既存のルールにとらわれず、社会の安全や秩序、国民の富や生活を守ることを優先すべきだと考える。
すでにさまざまなところで指摘されているが、政府案は大きな矛盾を抱えている。
政府は、東京電力の免責を明確に否定し賠償額に上限を設けないとするが、株主や債権者の責任は問わない。あるいは、(沖縄電力を除く)原子力施設を保有するすべての電力会社は、(将来の)原発事故への保険的意味合いで負担金を支払うが、この資金は(すでに起きている)福島原発事故の賠償資金として使われる。このような奇妙なことは法や市場のルールではとうてい説明できないから、これは「政治功利主義」的な解決策ということになるだろう。
政治功利主義の利点は、東京電力を守ることで、地域独占を前提とする既存の電力供給体制を維持できることだ。そのためこの案が、東京電力の株主や債権者、労働組合(電力総連)はもちろん、電力の地域独占から既得権を得ているひとたちの効用を最大化することは間違いない。ただし、これが「社会全体の厚生」を最大化するかどうかは定かではない。
原理主義と功利主義が対立したときには、どちらの主張を採るかの明快なルールがある。
- 原理主義的な解決策と、功利主義的な解決策の効用がほぼ同等な場合は、原理主義を採用する。
- 功利主義的な解決策のもたらす社会的厚生が、原理主義的な解決策に比べて圧倒的に大きいときは、功利主義を採用する。
原理主義は、シンプルな正義に拠って立つ。社会のメンバーであれば、だれもが同じように法に従うべきだ。金融市場では、株主の数が多いとか、借金の額が大きいというような事情で特別扱いしてはならない--こうした主張がひとびとの支持を集めるのは、だれもが合意する「正義の原理」に基づいているからだ。
原理主義的な正義を安易に否定すると、ひとびとは社会正義に対する信頼を失ってしまう。国民が「国家の正義」への信頼を失うのは社会の厚生を大きく毀損するから、政府は常に原理主義的な解決策を優先しなくてはならない。
ただし状況によっては、功利主義が「より大きな正義」になる場合もあり得る。
典型的なのは2008年9月のリーマンショックで、このとき米国政府は、大手保険会社AIGを救済しなければメリルリンチ、モルガンスタンレー、ゴールドマンサックなどすべての投資銀行と、世界最大の金融グループであるシティバンクが連鎖破綻するという極限状況に追い込まれた(その後になにが起きるかは神のみぞ知る、だ)。もちろん歴史をやり直すことはできないから、そのときの判断が正しかったどうかはだれにもわからない。だが当時財務長官だったヘンリー・ポールソンの回顧録を読めば、彼らがAIG救済を「より大きな正義」だと確信していたことは間違いない。
AIGはサブプライムローンのリスクを引き受けることで莫大な利益を享受してきたのだから、これを救済することが原理主義的な正義に反することは明らかだ。アメリカ政府はそのことをよくわかっていたが、それにもかかわらず、議会と国民に対し一歩も引かずに「より大きな正義」を語った。
ひるがえって日本の政治家に欠けているのは、この「正義」への確信だ。
原理主義と功利主義はつねに対立するわけではない。原理主義的な社会正義を担保しつつ、功利主義的に社会の効用を最大化できる案があれば、そのほうがいいのはいうまでもない。事実、電力の地域独占を撤廃し、発送電を分離したうえで、スマートグリッドなどの新技術を導入することでより効率的な電力需給が実現できるという代案が、経済学者ばかりか当の経済官僚からも提起されている(たとえば経済産業省大臣官房付・古賀茂明『日本中枢の崩壊』所収の「東京電力の処理策」を参照)。
政府は、原発事故被害対応チームの「関係閣僚会合」で支援スキームを決めたのだから、現行案がもっとも正義にかなうと判断したのは間違いない。当然のことながら、地域独占の廃止や発送電分離などの代案も慎重に検討したうえで、それらは社会の厚生を毀損するとの結論に達したのだろう。だったらその協議の過程を、具体的な数値や根拠とともに、ありのまま国民に公開すればいい。
政府に「正義」への確信があるのなら、自分たちの案が批判されると慌てて、「金融機関は債権を放棄すべきだ」とか(株主責任を問わずになぜ債権者だけが責任を問われるのか)、「発送電分離を検討する」とか(だったら東電の上場を維持する必要はないだろう)、「東電にもっとリストラしろと口をすっぱくしていっている」とか(経産大臣がいかに権威がないか天下に公表するようなものだ)、その場の思いつきのような言い訳をするべきではない。これでは、「なんだか知らないけどみんな怒っているからとりあえず謝っておこう」というのと同じだ。
こういう態度を見せられるたびに国民が絶望していくことが、このひとたちにはわからないのだろうか。
電力料金を値上げできなければ政府の支援スキームは確実に破綻するのだから、言い逃れで時間を稼いでいては事態は悪化するばかりだ。進むか、撤退するか、道はふたつしかない。
東電救済が功利主義的に正しいと確信しているのなら、やるべきことはひとつだ。
ステージにはスポットライトが当てられ、観客も集まっている。だが演壇の前は、いつまでたってもがらんとしたままだ。
さあ、舞台に上がれよ。
そして原理主義的な正義を叩きつぶすような、大きな「正義」の話を聞かせてくれ。
追記1
説明責任を負うのは政府や民主党だけではない。これまで原発政策を積極的に推進してきた自民党も、相手の言葉尻をとらえて足を引っ張るような姑息なことはやめて、原発事故の賠償責任はどうあるべきか、党としての対案を国会でぶつけるべきだ。
追記2
5月20日付の日本経済新聞が、「薄氷の東電公的管理」として、政府の支援スキームが決まるまでの過程を検証している。
福島第一原発事故の直後に東電は市場からの資金調達の道を絶たれ、経営破綻の危機に陥った。そこで金融庁は、大手金融機関に融資の実行が可能かどうかを問合せ、さらに経済産業省の松永和夫次官が、全国銀行協会の会長で東電のメーンバンクでもある三井住友銀行の奥正之頭取(当時)に、「我々も責任をしっかり負う。金融機関も支えてほしい」と支援を依頼した。金融機関はこれを、政府からの事実上の要請ととらえ、総額2兆円の融資を行なうことになる。
ところがその後、政府内で東電の国有化案が浮上したとの報道があったことから、金融業界は「政府は約束を反故にするのか」と激しく動揺した。株主も債権者も責任を問われない現行の支援スキームは、この2兆円の融資をどのように保護するのか、というところからスタートした。
金融機関からの融資がなければ、原発事故の直後に東電は経営破綻し、金融市場が大混乱に陥るばかりか、電力の安定供給すらも危ぶまれただろうから、「事故後の緊急融資は全額保護されるべきだ」との金融機関の主張には理がある。だったら経産省次官の口約束ではなく、政府が明示的に国家保証をつければよかった。これなら、その後の支援スキームの決定にあたって、政府はフリーハンドを確保することができただろう。
ところで、「東京電力が消滅すれば賠償主体がなくなり被災者が不利益を被る」との主張があるようだが、政府の適切な立法措置でこの問題は解決できるのだから、法律上の瑣末な議論にすぎない(これに関しては玉木雄一郎「「プレパッケージ型」法的整理で東電の再生を図れ。」を参照)。
政府や経産省は、世論を意図的に誘導するような「恫喝」をやめて、正々堂々と自らの主張を述べるべきだ。
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