タックスヘイヴンの本当の所在地
4月8日、東京地検特捜部はオフショア法人と海外口座を利用したインサイダー取引容疑で、東証2部上場の投資会社ジェイ・ブリッジ(ジェイ社)の野 田英孝元会長ら2人を逮捕した。報道によれば、野田元会長らはカリブ海のタックスヘイヴン、ブリティッシュ・ヴァージン・アイランド(BVI)に二つのダ ミー会社を設立し、法人名義でシンガポールの金融機関に口座を開設した。その後、これらの法人を使ってジェイ社株計45万株を取得し、同社が業績悪化を公 表する前に全株式を売却したという(本人は容疑を否定)。これは、国境を越えたインサイダー取引の日本でのはじめての摘発事例となった。
ところで、この事件で「国境を越えた」のはいったい何だろう。もちろん、BVI法人の名義になり、シンガポールの金融機関で売却されたジェイ社の株 式である。だが実際には、この株式は有価証券の信託機関である「ほふり(証券保管振替機構)」に預けられたまま、物理的にはどこにも移動していない(さら にいえば、今年一月から上場株式は電子化され、ジェイ社株はほふり内のデータとして管理されているから、物理的な株券すら存在しない)。
シンガポールの金融機関に口座を持つBVI法人に株式を売却すると、その売却代金がシンガポールから日本に送金され、それと引き換えに株式がBVI法人の口座に移管される。だが先に述べたように、これは物理的に現金と株券が移動するわけではない。
シンガポールの金融機関は、日本の銀行に決済用の円口座を持っている。この口座は外国人(法人)が所有者だから、国内法の対象にはならず、シンガ ポールの法律が適用される。そのため日本の銀行は、これを国内口座(オンショア)から分離して、海外口座(オフショア)として管理している。これをコルレ ス口座(中継口座)と呼ぶが、それは江戸時代の長崎・出島のように日本であって日本でない「租界」だ。
シンガポールの金融機関が株式の売却代金を円で支払う場合、オフショア(コルレス)口座にある円資金をオンショアに移すと同時に指定された国内金融 機関の口座に送金する。同様に日本からシンガポールのBVI法人口座に株式を移管する際も、ほふりにある株式データを記帳しなおすだけだ(厳密にいうとシ ンガポールの金融機関は日本の信託銀行などにオフショア口座を保有しており、ほふりの株式データは、信託銀行内でオンショアからオフショアに分類し直され る)。
私たちはタックスヘイヴンというと、どこか遠い南の島を思い浮かべる。だが原理的には、国土や国民が存在しなくても、主権さえあればタックスヘイヴンは成立する。
ジェイ社の事件では、株券も円資金も日本国内だけでやり取りされていた。それなのに「海外取引」とされるのは、コルレス口座がシンガポールの主権の下にあるからだ。
タックスヘイヴンとは、観光パンフレットに載っている砂浜や椰子の木ではなく、グローバルな金融ネットワークのなかに重層的に組み込まれたヴァーチャルな「主権」のことなのだ。
政治のスケープゴートに
G20でタックスヘイヴンの監視強化が合意され、UBS問題でスイスの秘密主義に批判が集まっている。だがこれはある種の政治劇で、主権国家の寄せ集めである国際社会が「タックスヘイヴン問題」を解決することは原理的に不可能だ。
G20では、中国が管轄する香港とマカオを監視リストに載せるかどうかで激論が闘わされた。結局、中国の強硬な反対でリストから外されたのだが、こ の特例は今後の活動に大きな制約となる可能性がある。他のタックスヘイヴン国にとっては、香港やマカオと同じ基準を導入するだけで、OECDの監視を逃れ ることができるからだ。国連の常任理事国でG20の主要メンバーでもある中国が、「一国二制度」の名の下でタックスヘイヴンを所有している矛盾が今回明ら かになった。
だが、国際社会の協調を乱す要因はこれだけではない。
タックスヘイヴン批判の先頭に立つアメリカは、外国からの投資を引きつけるために大規模な非課税政策を採用している。世界最大のオフショア市場は、ロンドンのシティである。大国が自ら進んで既得権を手放すはずはないから、国際社会の政治圧力には自ずと限界がある。
世界じゅうが未曾有の景気悪化に落ち込むなかで、タックスヘイヴンやプライベートバンクが政治的なスケープゴートとして利用されるようになった。
人口50万足らずのルクセンブルクはヨーロッパの代表的なタックスヘイヴンのひとつで、国民一人あたりのGDPは世界一である。リヒテンシュタイン は国家というよりも貴族の私領で、人口3万人強の田舎町だが、人々はヨーロッパの大国よりもずっと豊かな暮らしをしている。経済格差に苦しむ貧困層の不満 を国内政治から逸らすには、「脱税で潤う」国々は格好の標的だ。
オバマ政権は実質国営化した大手保険会社AIGの高額ボーナス問題で窮地に立たされ、国民は金融システム維持に天文学的な税金を投入することに疑問を持ちはじめた。UBS幹部を上院に喚問し、「税を逃れる富裕層」を厳しく摘発する背後には、明らかな政治的意図がある。
だがその一方で、「自国の主権を利用して他国の主権を侵害する」プライベートバンクのビジネスモデルが破綻し、ジェイ社のインサイダー取引疑惑に見 られるように、脱税を含む違法行為に対して国家間の情報交換が行なわれるようになったことも事実だ。G20の決定を受け、日本政府はスイス、香港、シンガ ポールなどとの租税条約改定を検討しはじめた。
タックスヘイヴンはいま、時代の大きな波に揺れ動いている。
タックスヘイヴンの未来
私たちがタックスヘイヴンを利用するのは、それが有用だからだ。
日本の証券会社は、外国人はもちろん、海外に居住する日本人にすら口座を開かせない(海外赴任の際は、強制的に口座を閉鎖されてしまう)。日本の株式市場に投資したい外国人(非居住者)は、香港やシンガポールなどオフショアの金融機関を利用するほかない。
外国人に国内口座を開放すると、源泉徴収などの手続きが混乱する。そのため日本政府は、実質的に、証券機能の一部をタックスヘイヴンに外注(アウトソース)しているのだ。
同様のアウトソース化は、法人や機関投資家の金融取引では日常的に行なわれている。日本の金融機関はケイマンに特別目的会社(SPC)をつくって証 券化商品などを組成しているが、これは租税回避を目的としたものではなく、日本の複雑な規制では投資家の要望に対応できないからだ。
このようにタックスヘイヴンは我々の金融システムに深く組み込まれており、経済のグローバル化にともなってその重要性はさらに増している。未来のタックスヘイヴンは、いったいどのようなものになるのだろうか。
UBS問題を受けて、大手のプライベートバンクはオフショア取引(クロスボーダー取引)を縮小し、オンショアへとビジネスをシフトしている。UBSに続いてクレディスイスも日本で富裕層向け金融サービスを始めるが、これはその世界戦略の一環だ。
富裕層サービスのオンショア化にともなって、タックスヘイヴンの金融機関は、ごく一部の大富豪を顧客とする伝統的なプライベートバンクと、個人(リテイル)向けのオンライン銀行・証券会社へと二極化し、結果としてその門戸を一般投資家に大きく開くことになるだろう。
10年前は、海外の金融機関を利用する日本人はほとんどいなかった。それがいまでは、誰もが気軽に香港やシンガポールに口座を保有し、投資や決済に使っている。タックスヘイヴンの大衆化は、グローバル経済とIT技術の急速な進歩の不可避な結果だ。
それと同時に、世界的に「オンショアのタックスヘイヴン化」とでも呼ぶべき現象が起きている。
法人をどの国に登記するかが自由であれば、一国だけが高い法人税を課すことはできない。これによって、法人税率の引き下げ競争が引き起こされている ことは先に述べた。タックスヘイヴン政策で奇跡的な経済成長を遂げたアイルランドの事例がよく知られているが、アジア圏でもシンガポールが08年に法人税 率を18パーセントに引き下げている(日本の法人税の実効税率は39パーセント)。
国境を越えた資本移動が自由であれば、高率の資産課税はキャピタルフライト(資本逃避)を引き起こすだけだ。そのため多くの国で、金融資産に対する 課税が軽減されている。日本も例外ではなく、株式の譲渡益は20パーセントの源泉分離課税が原則だが、「株価対策」を名目に03年に10パーセントに引き 下げられたままだ(配当にも同様の軽減税率が適用されている)。
贈与税・相続税のない国が存在する以上、年金や健康保険などの社会保障に依存する必要のない超富裕層は、移住や国籍離脱で容易に課税を回避できる。この矛盾を正そうとすれば、同様に課税を廃止するか、税率を下げるほかない。
タックスヘイヴンがごく一部の権力者や富裕層だけのものであった時代には、娯楽映画やスパイ小説の題材にしかならなかった。それが政治問題化したのは、大国の政策を左右するところまで影響力が拡大したからだ。
タックスヘイヴンとは、主権を利用した国家ビジネスである。税務情報の交換や租税条約改定は、こうした国々の存在を国際社会が公認することになる。一定の制約を代償に生存権と正当性を獲得するのは、彼らにとっても不利な取引ではないだろう。
世界の国々はいま、増税の選択肢を封じられたまま、景気対策の名の下に巨額の財政赤字を積み上げている。
皮肉なことに、タックスヘイヴンを排斥しようとすればするほど、世界はタックスヘイヴンに近づいていくのである。
『中央公論』2009年6月号