年金制度に関する議論が喧しい。厚労省(旧厚生省)や社会保険庁による保険料の流用疑惑や、国会議員の年金未納問題が憤激を呼んでいる。国民の財産である保険料での遊興が許されるはずもないし、政治家が国民の義務を放棄するのは論外だ。しかし、マスコミの執拗な報道にも関わらず、年金制度批判にはどこか虚しさがつきまとう。なぜだろうか?その理由は簡単に説明できる。議論とは、問題を解決するために行なうものだ。解決の可能性がない問題を議論するのは時間の無駄である。年金問題はその典型だ。
日本の年金制度は、現役世代からの「仕送り」によって高齢者の生活を支える賦課方式を骨格としている。少子化で労働力人口が減れば「仕送り」の額は少なくなり、高齢化が進めば年金支給額は際限なく膨らむ。この単純な理由によって、年金制度は必然的に破綻する。政府は保険料の若干の引上げと年金受給額のわずかな引下げでこの問題を「解決」しようとしているが、それがたんなる弥縫策に過ぎないのは子供にでもわかる。マスコミや野党は政府の改革案を批判するが、有効な代替案を提示できない以上、その批判も虚しいだけだ。
多くの人が誤解しているが、年金制度とは国家の運営する保険事業に過ぎない。加入者は一定期間保険料を納め、規定の年齢に達したら年金を受け取る。基本的な仕組みは、民間保険会社の年金商品と変わらない。
一般に、国営事業が破綻の危機に瀕しており、ほぼ同様のサービスを市場が提供できる場合、最良の選択肢は国営事業を民営化することだ。国鉄改革以前は、鉄道のような公共のインフラに関わる事業は国家が行なうことが当然とされていた。現在では、JR各社をふたたび国営化すべきと考える人は皆無だろう。同様に、近い将来、国家の年金事業が民営化されても何の不思議もない。
国営保険は賦課方式・強制加入・世帯単位を特徴とし、高度成長期のサラリーマン家庭を基準に設計されている(1)。だが今や、「専業主婦に子供二人」という標準家庭は少数派となり、かつてのような経済成長は望むべくもない。大規模な経済的・社会的変化の中で制度の矛盾が噴出するのは当然なのだ。
厚労省は「年金制度は世代間の助け合い」と繰り返すが、国民の大多数は、支払った保険料以上の年金を受け取るのが当然の権利だ考えている。国民年金の未納率は20代では過半数を超えており、「保険加入は個人の自由」と考える層がやがて多数派になるだろう。サラリーマンの妻(第3号被保険者)は保険料を支払わずに年金受給権を得ているが、年金を個人単位で管理すればこのような不公平はなくなる。これが国民の望む「公平で透明な年金制度」の姿だとすれば、それは任意加入・積立方式・個人単位の設計を基本とする民間保険そのものだ(2)。
バブル崩壊後の金融危機で私たちが学んだのは、仮死状態の金融機関を延命させることで莫大な社会コストが発生することだった。1995年の住専問題では7000億円程度で議論されていた公的資金注入枠は、今や40兆円規模(実際の注入額は約10兆円)にまで膨れ上がった。それを考えれば、構造的に維持不可能な国営保険会社は、一刻も早く破綻処理することが国民の利益になる(3)。
年金制度の矛盾は、国民が老後の生活を国家に依存することから生じている。だが日本国にはもはや、国民の生活を保障するだけの財政的余裕はない。どんな筋書きを用意しようとも、ドラマの結末はあらかじめ決められているのだ。
年金改革をめぐる論議は、翼の折れた飛行機の中で、誰が操縦するかを延々と議論するのによく似ている。
(1)高い経済成長率の下では、賦課方式によって、支払った保険料よりもはるかに多額の年金を支給することができる。厚生年金は給与からの天引きなので、保険料の徴収コストがきわめて安い。年金を世帯単位にすることで、所得のない専業主婦の老後を保護することができる。かつては、公的年金は非常に合理的な制度だった。
(2)市場では消費者が支持する商品しか生き残れない。国民の望む年金の姿が市場型の保険に酷似するのは、この意味で当然である。
(3)賦課方式の保険を、民間保険のような個人別の積立方式に変更するにあたっては、現役世代に保険料の二重払いが発生する。彼らは年金受給者に「仕送り」を続けながら、自らの年金を積み立てなくてはならない。この矛盾を回避するには、この移行期に国家による巨額のファイナンス(資金調達)が必要になる。その額は、既存の年金制度が延命するほど膨らんでいくだろう。
橘玲『雨の降る日曜は幸福について考えよう』(幻冬舎)2004年9月刊
文庫版『知的幸福の技術』(幻冬舎)2009年10月刊
後記:初出から現在までに政権が自民党から民主党に変わり、「100年安心プラン」をはじめとするさまざまな”抜本”改革が行なわれたが、国民年金保険料の未納率は4割を超えるまでに悪化し、年金財政は悪化の一途を辿っている。